新箱です
亀山早苗 2011年02月04日(金)00:54新年なので箱も新しくしました・・・。
しかし・・・あっという間に1月も終わってしまいましたね〜。
思うようにはいかないな〜ということばかりですが、
何もかも思うようにいったら気持ち悪いし・・・。
がんばろ。
HANAさん、早苗さん、かわせみさん、ありがとうございます。
お話しいただいたこと、参考にいたします。
少し気がラクになりました。
かわせみさんの「子供の質問には全部答えないほうがいい」というのは、考えませんでした。
回りくどくても一つ一つ答えるのが親のあるべき姿勢だと思っていたので。
視点が意外で、夫にも、かわせみさんの書き込みのその部分は読んでもらいました。
子供の質問って、ホントに「?」が動機になっているだけではなく、
単に親に絡みたい、かまってほしい、困らせたい…というのもあるのかもしれません。
先日、NHKの「こころの時代」をDVDに収録し、今日観ました。
イラストレーターから尼僧になった方が出ていたのですが、
その方が紹介するダンマパダ(法句経)の言葉を見てびっくり。
確か「人々は、黙って座るものを批判し、多く語るものを批判し、ほどほどに(少なく?)語るものを批判する。世間に非難されないものはいない。」とか。
ブッダがすでに説法で話していたのに、いまだに人(私も含む)は、世間に振り回されているんですね・・・。
最近睡眠不足です、おやすみなさい・・・。
そうそう、いつでもどこでも何か人と違うことを言ったりしたりしたら、
何か言われる・・・そんなことは覚悟の上です。
「言いたいヤツには言わせとけ」って、昔からよく言われたな・・・。
私もちょいとヘンな子だったようで
(整列ができないとか、黙っていなきゃいけないときに私語を交わすとか)
しょっちゅういろいろ批判されていました。
今だって、似たようなもの。
人から評価されようとは思っていないので、別にかまいませんが・・・。
子育てにしろ、生き方にしろ、理想を追求しようとすると、
理想と現実のギャップに、自分が押しつぶされそうになるのかもしれません。
あるがままに、すんなり伸ばしていく。
自分自身も、すんなり伸びていく。
縮むときもあるかもしれないし、思うような方向じゃないところへ伸びる可能性もあるけど、
それはそれでおもしろいんじゃないかなあ・・・。
私もしょっちゅう、親に「なんで、なんで?」と聞く子でしたが、
小学校に入ったある日、帰ったら百科事典がありました・・・。
うちの親、恐るべし・・・。
早苗さんのお母さま、本当に楽しいかたですね〜。
いつも、むふふっ♪って笑みを浮かべながら読んでいます。
white gateさん
死にたいと考えてしまう人が、積極的に生きたいと思えるようになるのは
容易なことではないように、私は思います。
でも、死ななくても何とかなりそうだ…くらいにはなれるかもしれません。
ずっと考えていたことを『考えたってしかたない』と言われたって、
混乱しますよね。
ゆっくり自分なりにまた考えてみてくださいね。
本当に、思うようにならないことだらけですね〜。
でも、たまにはいいこともあるし、美味しいものを美味しいと
感じられることは幸せだし。
ぼちぼちいきます、今年も。
横道にそれっぱなし!の私ですが、そのほうが面白かったかもしれません。
white gateさん
一人の人格として子供に真剣に向き合うというのは、本当に難しいことですね。
こっちが真面目に向き合えば向き合うほど、上からの目線に過ぎなかったりします。
子供と話していると、逆に頭が固くなってた自分に気づきました。
配水口へ流れていく水が渦を巻くことや、ジュースに浸したお布巾にジュースが登っていくこと、女はなぜいろんな言葉に「お」付けるのが好きなのかとか、なぜおまわりさんの言うことをきかなきゃいけないか、果ては歯磨きはなぜしなきゃいけないか・・・etc.
こういうのって、説明できそうで本当はとても難しいものです。
その驚きや感動を共有する方が、ずっと人間的対応だと思うのです。何より楽しいし。
人を批判することも同じこと。わが身を振り返ったらできることじゃないのに、自分だけの小さな価値観で優劣を測って押し付けてしまうのが人間の常なのでしょう。
世界は広い、いろんな人がいろんな考えや感じ方を持っていて当然。たとえ子供でも。
TVのアナウンサーは参考になりますよ。アナウンサーって、人にインタビューなんかする時、自分の知ってることをぺらぺらしゃべらないでしょ。相手の知識や感性をひきだすことが仕事ですから。
早苗さん
私、小学生の頃、春休みに百科事典の第一巻「あ〜あん」を読み尽しました。
で、熱出した・・・。
「あ」で始まるものなら何でも知ってると自慢したかったけど、結局たいした役には立たなかったです。
所詮知識は知識に過ぎないんですよね。
事典というのは読みふけるものではなく、必要な時に引いて役立てる物だとわかりました。
でも、いまだに引いた言葉の前後の項目も読んじゃいますけど。
HANAさん
誰でも死んでしまいたいほど辛い時ってあると思いますが、「私が死んでも、また朝は来る」って思うと、ちっぽけな自分の命が無性にいとおしくなりませんか。
その死に涙する人はいても、涙はずっと続くものではないし。
ローランサンの詩に「最も哀しいのは忘れられた女」という一節がありますが、死んでなお長く人の心と記憶に生き続けられる人は稀です。
それでもいつか、いやおうもなく死を前にしなくてはならないのが人間。
その時は、せめて次の朝が私の思い出で少しだけでもあたたかくなるように、そんな一生を生きたいです。
そこで、私が経験した笑える話やあったかい気持ちになれる話をまとめておいて、みんなに読んでもらおうかと。
え、もっと高尚な話だと思ったって? あはは。
さて、このサイトのサブブログ「宝箱」に、今月のテーマを載せました。
題して「最後の晩餐」。
お料理レシピばかりじゃつまんないから、食に関する話題も載せていきましょう。
食べることは、人生そのもの。
皆さんの投稿、お待ちしています。
かわせみさん
そうそう、結局、私、その百科事典、数回しか開けたことがない・・・。
読んだって頭に入るもんじゃないんですよねえ。
国語辞典は好きなんですけど。
「知識」というものに関して、私はけっこうコンプレックスがあります。
だって、な〜〜〜んにも知らないんだもの。
ときどき、一から勉強しなおしたいと思ったりします。
世の中の仕組みやら、「理科」やら・・・。
でも最近は、聞いたことさえ片っ端から忘れていくし・・・。
宝箱、ありがとうございます。
早速、投稿してきました!
こんばんわ〜。
ちょっと、 今日はひとやすみですぅ。
この間、韓国のバラェティをぼーと見ていたら(一応、ハングルの勉強のためです)
字幕に、「幸せだから、笑うのではなく、笑うから幸せになれる」と出てきて、
うーーーん、と思ってしまいました。
whitagetaさん
私は、子どもたちが幼いころ、疲れてくるとよく「風邪でもひかないかな〜」と
思いました。実際、風邪で寝込むとご近所のママ友が夕食をお裾分けしてくれたり、
迷惑をかけてしまいました。で、少しでも自分たち、家族だけでなんとかできるように
子どもたちに、ご飯の作り方を教えました。まず、お米の炊き方、カレーやシチューの
作り方を、暇なときに教え、洗濯機の回し方、干し方、などなど。
たぶん、あなたの「死にたい」と同じ種類のものだと思います。表現が違うだけのモノだと
私は思います。
あなたが「死にたい」という思考回路が動くのは、たぶん、ですよ。
あなたの中に刷り込まれた思考回路なのだと思うのです。
幼い子どもにとって、その場を逃げたい思いが、一番単純な言葉、という言い方は
失礼だと思いますが、「死にたい」だったのだと思います。
上手く自分の中の気持ちが表現できないときのモノが、余裕のない時に表に出てくるのだと思います。それが、もっと強く出てくるとき、(一慨に言えないのですが)自傷や他害、もしくは多重人格になる可能性がある人もいると思います。
「死にたい」を「生きたい」と変換する必要が、あるのか、どうか私にはわかりません。
意外とそのように思うことが、加圧をするようにも思います。
ただ、あなたの「死にたい」=「逃げたい」という気持ちは誰でも持っているモノだと思っていただければ、うれしいです。
早苗さん
私も何にも知らないです。特に人文科学系統のことや、世間の常識ってヤツ。
何でもくまなく知ってる人って、めったといないわよ。
なのに、私も昔は世間様が怖かったんですよね。
どんなに才能や能力があっても、それだけで人の上に立てるわけではないと思ったら、気が楽になります。
むしろ、頭打ちながら生きてきて、人の痛みもわかる方が、どんな知識より大切なことではないかしら。
ごんたろうさん
「笑うから幸せになれる」、いい言葉ですね。
笑いが免疫力を高めるという説もあるくらいで、人生に笑いが大切だというのは実感です。
真面目に思いつめてると暗くなっちゃうから、無理にでも笑っちゃえば転換できることも多いと思うわ。
世の中、意外と笑いのネタって転がってるものだと思います。
うちの亭主、すごくたくさんの女性の名前をフルネームで知ってるの。それが、みんなTVのキャスターや天気予報のおねえさん。なんだかとってもおかしくて、笑っちゃいます。
最近のうちの娯楽は、7時半少し前のNHKの天気予報。半井小絵さんというんだけど、とっても喋りが下手で、何ともいえないおかしみがあって、いつも大笑い。
時々、胸がやたらと大きくなるのに気づいたのもうちの亭主です。
NHKの半井さんは「7時28分の恋人」として、オジサマ方に人気なのだそうです。
以前、土曜のスタジオパークに出ていらしてて、そんなことが話題に出ていました。
あの2〜3分のために、ものすごく勉強しているのをその時見てびっくりしました。
ごんさんのおっしゃるとおりだとおもいます。
「ああもういやだ、消えてしまいたい」が「死にたい」になってしまうのだと思います。
今思い出しましたが、「死にたい」の他、自分をいたぶるであろう「実家の母のもとに帰る」と言って家を出ることも…。
都心のビジネスホテルとかユースホステルに泊まるとかだっていいじゃん、と振り返れば思うのですが、
なぜか「実家に帰る」なんですよね。
罵倒され、バカだの能無しだの散々なことを言われ、口汚くののしりあうのは目に見えているのに。
自分で自分を叩きのめしたくなるのでしょうか。
「笑うから幸せになれる」で思い出しました。
今、人気の漫画家の西原理恵子さんも、ガンで亡くなったご主人に「どん底でこそ笑え」と言われていたのだとか。
戦場カメラマンだったご主人は、戦地で、大変な状況にある人ほど良く笑っているのを見てきたのだそうです。
ただ、ご主人はアル中だったようで、西原さんがそんなご主人との生活を笑いの漫画にしたのを目にしたとき、ご主人は相当荒れたそうですけれど…。
人生経験豊かな方のものの見方、考え方を知るのはとても面白いです。
精神的なタフネス、いったいどこから来るんでしょう。
そうそう、最後の晩餐、私も書き込みしました〜。
最後の晩餐ってなぜか贅沢なものを望まないんですよね・・・。
ちなみに、どーでもいい話ですが、私、なぜかメインディッシュを作るのはすごーく苦手です。
副菜とスープとデザートと主食を作るのはなんともなくて、特に漬物とデザートは得意なのですが、
メインディッシュだけはどうしても苦手。
ゆえに、厚みのあるお肉のかっこいい西洋ろうりぃ(西洋料理の柳家小三治さんっぽい発音)は作れません。
やってみたいけど…敷居が高いわ(笑)。
かわせみさん
私、軟弱な人間なので、辛くてどうしようもない…までいかなくても
すぐに『死んじゃいたい』と思っていました。
自死なんて勇気がなくてできないのに。
今は、できもしないことを考えていてもしかたないと思うようになったので
あまり考えませんが、いつ死が訪れてもかまわないと、
消極的ではあるものの、『死』を常に考えています。
みんなが私を忘れてしまっても、そんなことはまったくかまわないのです。
ちっぽけな私はいつ消えてもいいし、遺影もいらないと思っています。
一週間後に死ぬと宣告されたら、ホッとするかもしれません。
ごんたろうさんが『死にたい』は『生きたい』の裏返しだと
先日、書かれていましたが(昨日は反対のことを書かれていましたが…)
私にとってはそのふたつは、まったく違うのです。
とは言うものの、生きている以外、どうしようもないので、
それなら、楽しいほうがいいに決まっています!
だから笑顔でいられるように…とも思います。
表裏一体ではないですが、自分ではそれでおちついています。
早くに最愛の男性(と思っている?父)と死別したことは
無関係ではないのかな…と感じます。
最後の晩餐かぁ〜。
宝箱をのぞいてみます!
何を…より、誰と…かなぁ、望みがかなうとしたら。
仏陀は、すべての煩悩を棄てれば、苦しくないと言われたみたいですが
私には無理!
やはり、いろんな意味で、私は普通の人間でしかいられません〜。
でも、とても参考になりそうなので、
今後も少しずつ、仏陀について書かれたものは読んでいきたいと
思います。
おはようございます〜〜。
whitegateさん
今朝も合気道に 行ってますか?
わたしも、一時ジムに通ったときに、先輩たちに
若い頃からやると身体が違うから、頑張って続けなさい、と
言われながらも、現在、その時間が上手く作れずに挫折しておりまする。
どうか、続けてくださいね!
私は、合気道は分からないのですが、攻撃の中には、
相手を攻める、攻撃。見るからに攻める形と
自分を守る、攻撃。相手に自分のテリトリーに入れない攻撃の仕方が
あると思うのですが、どうですか?
話変わりますが、、、、
たまにお母さんの元に行きたくなる、という衝動は、
たぶん、、、振り戻し現象、リバウンドのようなものだと思います。
「死にたい」と子どものころに思ったことの底には、(これは憶測ですが)
「死ぬ行為をすれば」母が心配し、構ってくれる、と幼心に芽生えたのでは、
ないでしょうか?子どもは、養育者の目を通して、世の中を見ようとすると
思うのです。自分が養育者に立場が、変わるといろいろな面で×や○を決断する
ことは、とてもしんどいと私は、思います。
たま〜〜には、親に甘えたいと思いましたよん。
また、第3者であるわたしが、お母さんを悪くいうこともお許しいただくと、
お母さんのこれまでの人生の選択枝を選ぶときに、「娘のために」という言い訳が
常々、存在したのだと思います。それが、あなたに重くのしかかっているのだと思います。
でも、この「娘のために」というのは、親の身勝手な言い分でしかないと思います。
それは、「母子密着」でしかなく、他の視点からでは子の成長を侵害しているものとも思います。
今、あなたがお母さんに背を向けている行為は、「母子分離」という大切な成長過程にあるとも
思います。
娘から結婚をし、母になり、まだまだこれからですよ。何もかも、最初から上手くいくはずは、
ありません。でも、若さはあるはずです。ホントに私からすれば、羨ましい限りです。
恐れずに、どうか思い切り生きてくださいね! 骨は私たちが、生きていれば拾ってあげましょう!!
Hanaさん
いやいや、「死にたい」は「生きたい」
という2つの選択肢しか持っていない、という
考え方になっているのだと思います。
「生きたい」けれど、・・・答えがないから
「死にたい」という感じですかね。
自分で自分に烙印を押すという感じです。
私は、とても気ままな奴です。
わがままで、手に負えないとも思っています。
でも、申し訳ないですが、そんな自分が自分だとも
思っていますから、思い切り落ち込むことも多々あります。
でも・・・・ふかーーーく考えないようにしています。
答えはいつ何時、どこからか落ちてくるか、分かりせんから。
疲れたときは、クールダウンし、テンションが上がり続けた時も
クーりダウンし、自分に刺激を与え、心も体もストレッチさせるように
木を使っています。
でないと、このリズムの取りにくい私の生活を穏便に過ごすことはできません。
まぁー、いつも元気印は ご迷惑をおかけしているのは、十分承知しておりまする。
white gateさん
へえ、半井さんオジサマに人気なんですか。なるほど。
あの訥々とした話し方が、不器用だけど一所懸命って感じしますから。
なぜかかわいいの。
メインディッシュは気負わずにちょっとカロリー高い物だと思えばいいのよ。
ロースト物は慣れれば楽でお勧めですよ。
HANAさん
そうか、私は死も他者との関わりの中で考えるけど、皆そうでもないのね。
本当に自分を消し去ってしまいたいというほどの自己否定は、まだ経験がないのです。
きっと根が楽天的なんでしょうね。
ごんたろうさん
うん、クールダウン、これは大切なんですよね。
真面目すぎる人は、ひとつのこと見つめすぎてしまうんだと思います。
死にたいほど落ち込んでる時でも、ふとよそ見できると気が変わりますものね。
かわせみさん
「メインディッシュがその日の晩御飯のすべてを決める!」
などと思うと気が重いんですよね。
納豆パスタにサラダ漬物なんて気がラクでいいんですけど…。
ローストもの…うーん、修行したほうがいいかなぁ。
肉焼くのは、ほぼ全部夫にお願いしちゃっているので(私はメインディッシュ放棄?)。
ごんさん
合気道は、あくまで「演武」(要は「フリ」)でして、試合はないのですよ。
本気で対決する柔道や相撲道、空手道とは違います。
だから、攻撃といっても、あくまでもフリだけ。
突きをする、正面打ちをする、腕をつかむ…など。
取りと受けというのがあるのですが、取りというのは技をかける人、受けというのは技を掛けられる人。
単に技をかけるのではなく、受けから攻撃をされた→取りが技を掛けて防御をする→受けが押さえられる(受け身になったり、うつぶせで押さえこまれたりする)…という具合です。
試合がないなら、何が目的なんだ…となりますが、合気道の目的は「相手を尊重して己を磨く」ことです。
レベルの高い人とレベルの低い人が一緒に演武をします。
ちぐはぐで無理があるように見えるのですが、
合気道は相手との調和を図ってこそ、技がきれいに決まるものなので、
レベルの高い人は、相手のレベルに歩み寄ります。
レベルの低い人は高い人に相手をしてもらうことで追いつこうと頑張るし、
レベルの高い人は、いろいろなタイプに柔軟に対応できる技の精度を磨き、なおかつ、相手を思いやることで精神的なレベルアップにつながります。
と、知ってるよーなことを書きましたが、以上は座学のアンチョコを見て書いてます(笑)。
ただ、相手を尊重する、思いやる、感謝する…といったことは事実です。
超初心者のワタシ、これまでいろいろな方に相手をしていただきましたが、
どなたもすごく親切に教えてくださり、毎回非常に恐縮し感謝しております。
自然と座礼にも心がこもるんですよね・・。
私、実家にいたとき、死ぬ行為をしても、母に心配してもらうことは期待できませんでした。
むしろ、むこうが先に死ぬ行為をしました。
小学校5年くらいのときかな、
「夕食が異常に多すぎる、食べきれない」と言ったら「お前なんか二度とメシを食うな」と怒鳴られ、家を閉め出されました。
それまでも、散々怒鳴られており、「もう家にいたくない」と思い、電車に乗ってどこかへ行ってしまおうと考えて近くの駅に行ったんですね。
でも、手元にお金はなく、駅の待合室でうろうろしていました。
母が探しに来て、一緒に帰りました。
「心配して探しに来てくれたんだ」
「もう怒られなくてすむかな?」
と思ったのもつかの間、家に帰るなり、いきなり包丁を2本持ち出してきて、私の膝の前に置き、
母自身は横たわり、大の字になって
「さあ、この包丁でお母さんを刺せ」。
私は、驚きと恐怖でわあわあ泣いてしまいました。
あれが何を意味するものなのか、いまだによくわかりません。
幼い時分は、「それほどに家が嫌なら母親である私を殺せ。そうすればお前は自由になる、どうだ、いいだろう」という意味か、あるいは「私はそれくらい命がけでお前を育てているんだ」という意味かと思っていました。
今は、違っていて、それほどの脅しをしておけば、恐怖で私をねじ伏せられるだろう、母の言うとおりになるだろう…と無意識のうちに感じていたのではないか、と考えます。
私自身、それいゆに対してそう思い、似たような行動をしてしまおうかと思う瞬間があるから。
そういう行為は、子供をコントロールするための手段に過ぎず、
「人を人としてきちんと育てる」ということにおいては、まったく意味がないのですが・・。
命がけのつもりであっても、それを子供に伝えるべきではないとも思います。
そういえば、やたらと母は、私が4歳のときから
「お母さんと一緒に死のう」とか「狂っちゃったほうが幸せだよね、何もわからなくなるんだもん」とか言っていました。
ガンになったときも「死んじゃったほうがラク」と言ってましたね。結局手術受けたけど。
何かにつけ、子供に向かって心配させるような言動、行動が多かったです。
私も、夫やこちらの皆さんに散々迷惑をかけているので、母のことは偉そうに言えません。
合気道始めて、100%ではないけど、平日、くよくよすることは減りました。
時期的にそろそろ忙しくなることもあるとは思います。
身体を動かすのは結構いいのかもしれません。
white gateさん
また、チョイ読みですが...m−−m
だいzy