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背筋を伸ばそう

とある人の貴重な助言があり、夜中にふと、
「あれ、私ってもともと、こんな人間だっけ」と自分で自分を不審に思った。
言葉遊びもいいけれど、その裏には被害妄想、堂々巡り、マイナス思考、言い訳三昧。
私がいちばん嫌うことばかりをずっとしてきたような気がする。
どこからドツボにはまったのかわからないし、検証する気もないけれど、
いいことだけ記憶にとどめて、本来の私に戻れそうな気がしてきた。
いや、別に本来の自分がいいと思っているわけではない。
人は日々刻々と変わっていくものだし(自らも、そして他者からの影響も含めて)、
変わることはまったく恐れてはいないのだが、
背筋を伸ばして歩いていこう、ということだ。
被害妄想に陥っている女はうつむき加減で前のめり。怖すぎる。

でもひとつ発見した。
被害妄想に陥っているときって、他人のいいところも見えなくなっている。
あらゆるものが曇って見える。
自分の殻の中で小さく縮こまって、他者からの救いを待っているそぶりを
していて、とっても卑屈な感じ。

自分で自分を抱きしめていないと、どうなってしまうかわからないような不安と孤独。
それは、生きていく上では、いつだって直面していること。
それは誰にも埋められない。誰もが抱えている、ある種の「生の証」かもしれない。

自分の心の穴を誰かに埋めてほしい、というような人間関係は破綻する。
あらゆる人間関係は(家族は除く、かもしれないが)付加の関係でいたい。
補填の関係は、お互いの理性も感情も損なう。
そしていくら補填されても、無駄に被害妄想で消費するだけ。
個人と個人の関係においては、やはり付加がないと楽しくない。
男女関係も友だち関係も、基本はやっぱり楽しいかどうか、なんだろう。
もちろん、どちらかに何かがあったりもするから、
ずっと楽しいだけですむ関係は嘘くさい。表面的すぎる。
何かがあったら、そのときは、全力で支えてあげればいい。相手が望めば、だけど。
相手が望まないなら、そうっとしておけばいい。
ただ、基本的に快不快のどちらに人が惹かれるか、といえば「快」に決まっている。
確か20年も前に、この法則を考えついたのに。
なにやってんだろ、あたし・・・と自嘲する。

よく、「人」という字は支え合っている、という。
だが、これ、よく見ると、どっちかがバランス失ったら共倒れ。
HUMANの頭文字でもあるH。どっちもひとりで立ちながら、
ふと手を伸ばし合っている感じ。このほうがいいな、と思う。

昨晩も今晩も、BSでスカラ座のオペラをやっている。
昨日が「トスカ」、今日は「イル・トロヴァトーレ」。
トスカはグレギーナ、リチトラ、ヌッチというメンツ。
グレギーナとリチトラという超重量級のカップルはちょっと怖かった・・・。
抱き合っても、お互いに背中に手が届かない、という感じで。
グレギーナのトスカは、いいなと思うところとうーんと考えてしまうところが
混在していた。
昨日のトスカは、やたらと雄弁な音楽が印象的だった。
トロヴァトーレのほうは、ヌッチ、リチトラという昨日と同じ歌手に、
フリットリがレオノーラ。表現力といい、高音の美しさといい、
これは2000年の舞台だが、
今も彼女はイタリアオペラ界の最高峰ではないだろうか。

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