今日はファジル・サイのピアノコンサート、
その後、銀座で、例のフェスティバル・松竹の古い映画「祇園の姉妹」を観る。
溝口健二という人は、小津安二郎と比べられた監督。
私自身は、どちらかというと溝口ファンでもある。
あの長回し、そして、なぜか画像に色気がある。
色気、というのはもちろん、抑えたところにも表現されるわけで、
それは、ある種の「品」とも切り離せない。
露出の高い服を着ていれば色っぽいか、というとそうではないのと同じこと。
ストイックなところに表れる色気、というのもある。
色っぽさ、というのは「その人らしさ」だという説もあるから、
自分自身の生きる道筋がはっきりしている人ほど、色気のある人ともいえる。
日曜深夜の私の定番テレビ番組、日本テレビのノンフィクション。
今日は、「特攻隊」についてやっていた。
実は私はこの話題には弱い。知覧、という言葉を聞いただけで涙ぐんでしまうほど。
今日のこの番組、いつもよりずっとお涙頂戴的な作りだった。珍しい。
83歳になるとある女性が主人公。60年前、婚約者が特攻隊員になったことで、
一度も結ばれることがないまま彼は還らぬ人となる。
彼が特攻隊員として選抜されたことを知り、彼女は彼がいた三重県へおもむく。
だがときすでに遅く、彼は九州へ向かったという。
彼女は、彼が残した宮崎県都城という言葉だけを頼りに、汽車を乗り換え、
九州へ。ところが都城に着いたとき、彼の飛行機は旅だったあとだった。
しかし、実は彼が旅立った先は、知覧。
ここで天候待ちをしていたのだ。
すれ違いの連続、そして彼は彼女に遺書を残して片道燃料、
250キロの爆弾を載せた飛行機を操縦していく。
彼女は彼の遺書に「過去を振り向くな」とあったため、
悩み抜いた末、10年後に結婚、18年連れ添って夫を看取ったという。
このあたりの事情が、ちょっと不鮮明。
夫となった人は、彼女にそういう思い人がいることを知っていたのか。
結婚生活はどうだったのか。
そのあたりを克明にしすぎると、「60年の恋」というテーマがぼけるせいだろう、
彼女はひたすら、特攻隊員として命を散らした彼を思い続けている、ということに
なっている。そのあたりはしかたがないのか。
彼女は今も、彼が家に来たときの煙草の吸い殻を大事にもっている。
もちろん、彼への思いが月並みなものではなかったことはわかる。
何より泣けたのは、その特攻隊員となった彼の「遺書」だ。
感情はひたすら抑えている。
だが、最後に彼女の名を呼び、「会いたい、話したい、無性に」と書いてある。
23歳の若者が、これから数時間後に命を落とすことがわかっていながら
愛しい女性に書いた手紙。
それだけで、私はひたすら号泣。
先の戦争で、私は、いるべきはずの「おじ」を失っている。
粋で洒脱、浅草界隈ではちょっと有名な遊び人だった、という。
あまりに遊び人だったので、招集されないうちに
親が志願兵として軍隊に入れてしまった。
そして東南アジアで死亡。
親の嘆くまいことか・・・。
あれほど戦禍が激しくなるとは思っていなかったのだろう。
誰も彼もが、先を見通せなかったはずだ。情報統制の中では。
特攻隊も人間魚雷も、今の常識からみると常軌を逸した行動だと思う。
だが、当時はそれが正しい道だと信じられていたのだ。
そのことが非常に重い。