下の日記、文楽の話。「住大夫も語りも」ではなく、「住大夫の語りも」だ。
指が滑ると誤字脱字が多くなる。興奮している証拠?
NHK教育でやっている「こだわり人物伝」。
今は映画監督の山本晋也さんが、古今亭志ん生をやっている。
今日は2回目。志ん生の数少ない録画も流していた。
なんともいえない愛嬌とリアリズム。
落語って、リアリズムだったんだ、と改めて感心した。
カントク曰く、「人間の業を見つめて認めたのが、志ん生の芸」だ、と。
確かに落語に出てくる人間って、ろくなもんじゃない。
だけど憎めないのは、聞いているほうだって、みんな自分の「ろくでもなさ」に
気づいているからではないのか。
本人たちは必死なんだけど、周りから見たらどこか滑稽だったり、
かっこつけてるヤツへの揶揄だったり・・・。
それでも糾弾していることにならないのは、滑稽だと笑っている人や
揶揄している人たちが、自分の中にもそういった「エゴ」や「ずるいところ」が
あるとわかっているからだ。
「え〜、人間とぉいうものは〜〜」で始まる志ん生の落語が
なんともいえず好きだとカントクは言っていたが、
まあ、どんなに生きたって「人間というものは」わからないものだ。
もちろん、それだから生きていけるし、人生はおもしろいのかもしれない。
ろくでもない、情けない部分なんてのは私自身ももちろんもっている。
弱いし、ずるいし、さらにそのずるさを正当化しようとしたりもする。
たまに我ながら笑うしかないくらい、しょうもないなあ、と思うこともある。
ただ、自分を過小評価も過大評価もしたくない。
自分が自分を見る目はどうしたって偏ってしまう。
人をたくさん見ることで、人とちゃんと話をすることで、
自分のことも見えてくる、といつも思う。
自分を見るより人を見るほうがおもしろいし・・・。
落語を聴くのも、ひとつの「人間観察」なのかもしれない。