朝までに雑誌の原稿1本と、構成を1本直してようやくベッドへ。
朝といっても寝たのはお昼近く。夕方には起きようと思ったけど、
あえなくダウンで、起きたのは夜7時。
去年の夏から秋にかけて、週に数回ジョギング&ウォーキングをしていて
かなり体調がよかったので、また始めようと思っているのだが、
どうもこのところ、時間がとれない。
そこで・・・筋肉トレーニングクッションなるものを買ってしまった。
固いクッションで、これを胸のあたりで両側から押したり、
足に挟んで押すことで、筋力を鍛えましょう、というもの。
数えてみれば、狭い家の中に、いくつ運動器具があることやら・・・
体を鍛えたりダイエットしたりってのは、本当にむずかしい。
先日来、「古典落語」についていろいろ考えている。
噺家の中には、古典が古典のままじゃいけない、と言って
いろいろな試みをしている人たちもいる。
たとえば一銭五厘を「円」で言い換えたり、時間を今風にしたり。
だけど、私は実はそんなことはあまり意味がないのではないかと思っている。
江戸時代当時、百両というお金が今に換算するといくらになるか、というようなことは
たいしたことではなく、それが「大金」であることさえわかればいいのではないか。
むしろ大事なのは、長屋の風情であったり、江戸の粋だったりするのではないか。
もちろん、今の時代に江戸を知っている人はいないのだから、
正確に表すのはむずかしいだろう。
だけど、落語というものは、古典である限り、古典らしさがほしい。
なぜなら、古典落語にあるのは、人間の変わらない本質だから。
ちょっとしたずるさであったり、人がもともともっている弱さや間抜けさだったり。そそこに現代の感覚を持ち込むと、かえって話がわからなくなるような気がする。
今を生きている人間が演じるのだから、嫌でも現代感覚は入ってしまう。
歌舞伎でもオペラでもそうだけど、あえて「現代」を持ち込まなくても、
演じている人たちが現代人であることで、
すでに現代は持ち込まれているのではないか。
混乱してきて、うまく整理がつかないのだが、古典といわれる芸能・芸術が
どこまでどうやって生き残っていくのか。
特に落語のように、噺家の技術ひとつにかかっている場合、
非常にむずかしいと思う。