われわれが日常、いかに多くのものを食べているか、このところ実感させられる。
栄養について考えなくても、バランスよく食べる習慣がついているのだろう。だから、偏った食事をすることができない。1週間ばかり乳製品がとれなかったのだが、それだけでどこか体も気持ちもおかしくなっている。
乳製品をとって、ようやくほっとした。体が欲していたことを実感できた。
被災地の人は、温かいごはんと温かいお味噌汁を口にできていない。肉や魚や野菜、豆腐に納豆、そういったものをいろいろ味を変えて食べる、というごくありきたりの食事ができていない。おそらくそれは、精神的にも影響があると思う。
食事は空腹を満たせばいいというものではない。体も心も食べ物からできている。
覚悟が遅れると判断が鈍り、結果的にすべてが最悪の方向に転がっていく、という事例を、私たちは毎日、目の当たりにさせられている。
問題が起こった当初、なぜ菅さんはアメリカから保冷剤をもらわなかったのだろう。廃炉にしたくなかったからだろう。このままだと危ないことになりますよ、となぜ誰も言えなかったの? 廃炉どころじゃないことになりますよ、と言える人はいなかったの? 責任とらされるのが怖かったの?
恩返しはあとから考えればいい。今はとにかく、政府が見栄もプライドも捨てて、世界中に「助けて」と叫び続けたほうがいい。
トイレットペーパーにティッシュに乾電池、そして水。相変わらず店頭にはない。
ある店では、店員さんが「みなさん買い占めてるんですよねえ」とため息混じりに話してくれた。買い占めに走らなかった者が、今になってあたふたしているということか・・・。いえ、私のことですが。
かと思えば、「水? 野菜? 全然気にしないわ。普段通りよ〜」というたくましい人もいる。人それぞれということか。
揺れてないのに「わ、地震?」と言う人が多い。地震酔いというのがあるそうだ。
揺れる地面、見えない放射能・・・。
どこかで常に怯えている自分がいる。
どこか生活の手順がおかしくなっている。下地クリームを忘れてファンデーションを塗ってしまったり、エレベーターに乗って行き先階を押すのを忘れ、「わ、動かない。地震?」と焦ったりする。
自分では平常心でいるつもりなので始末が悪い。こういうときは何かミスをしないよう、気をつけなくては。
政府の言うことが信じられない。経産省保安院の言うことが信じられない。大本営発表の裏には、いつも重要かつ国にとって都合の悪い「真実」が隠されていると思う。
NHK解説委員の水野倫之さんの話はわかりやすい。あの顔を見ただけで、今日は怒っている・・・とわかる。彼が怒っているときは、公的に発表されている以外に、何か別の真実があるのではないか、と言葉の深読みをしてしまう。
震源地近くに比べれば小さかったけれど、11日の地震はここ東京でも、とてつもない揺れだった。のんびりとぬか漬けでも作ろうと、野菜を出したとたん、ぐらりと来た。つけていたテレビから、緊急地震速報のサイレンが流れる。
それを見る間もなく、さらに大きく揺れ始める。携帯電話を握りしめ、逃げ道を確保するために玄関を半開きに。立っていられないほど揺れていた。玄関の柱に手をついて、ただひたすら堪えるしかない。がさっわさっと建物がしなる。部屋でものが落ちる音が響く。長い長い揺れだった。その30分後に起こった地震でもまた、建物がわさわさと揺れた。
頑丈な木の本棚が倒れた。もし寝ていたら、角が眉間に当たってとんでもないことになっていたと思う。倒れた本棚をひとりで起こすのに6時間かかった。気持ちがへこんだ。
あれから2週間。世の中がすべて変わった。災害というのはこういうものなのだと実感している。津波、原発。水の心配。そして都内の店からものが消えた。食べ物、トイレットペーパー、ティッシュ、生理用品、電池、そしてもはや水はまったく手に入らない。
落語会も自粛、自粛。イベントも中止。東京から笑みや活気が消えている。
誰もが半分、被災者であるという自覚がある。それでも、誰もが何かをしなくてはいけないと焦っている。そして私も・・・。
いろんな人に甘えた。「怪我などありませんでしたか」という一言に心がなごんだ。ないものを送ってくれるという人に手を合わせた。
ナイトゲームを強行しようとしたプロ野球に批判が集まった。もっともだ、と思う。とにかく電気が足りないのだから、それはしかたがないのかもしれない。
だけど・・・気持ちまで縮こまってはいけない。ようやくそう思えるようになってきた。テレビに映る被災地の子どもたちの顔を見ると、少しだけ心がなごむ。「希望」という言葉を簡単には使えない、使う気になれない。だが、子どもの笑顔はやはり、いい。