今朝、ふと思い出したことがある。
小学校のころ、遠足に行って、私と数人のグループが道に迷った。
山道を、みんなと違うルートで帰ろうとしたからだ。
当時から、「人と同じ」ことをするのが嫌な子供だった。
とはいえ、小学生が遠足に行くような場所だから、
山というか林のようなものだったと思う。
私たちとしては、「迷っている」意識はなかった。
ルートは違っていても、結局、戻れる自信があった。
だが、教師たちはそうは思わなかったらしい。
けっこう大騒ぎになっていて、下に降りたらすごい勢いで叱られた。
「心配したのよ!」と教師が怒りまくっていた。
心配した、と言いながらなぜ怒っているのかわからなかったし、
子供心に「大丈夫なのに、心配したのは勝手でしょう」と思っていた。
ませた嫌なガキだ、今思うと。
こっちは自信満々で帰ったのに、違うルートで帰ったことを
褒められずに怒られたのが納得いかなかった。
それ以来、私の心の中には、「心配するのはエゴかもしれない」
という思いが巣くうようになってしまった。
友だちや大事な人に、何かがあっても、
「心配しているよ」と言えなくなった。
本当に心配だから、心配してる、と言ったら、
私と同じような嫌な性格のヤツに、「心配するのはそっちの勝手。
自分が安心したいから、心配しているということを相手に伝えるんでしょ」と
言われたことがある。
ご名答・・・。
それでも自分が落ち込んでいたり、体調が悪かったりしたときに
「大丈夫?」と言われるとうれしい、ということが
少しずつわかるようになってきた。
気遣いすることで、かえって相手に気を遣わせたら意味がない。
だけど、やっぱり素直に伝えたいときもある。
今はむしろ、率直に言いたい。
「あなたのことが心配なんだ。それだけ大事な人なんだ」と。
それを相手が素直に受け取ってくれなくてもいいんじゃないか、とさえ
思うようになった。
もちろん、押しつけはよくない。
感情を垂れ流すのも相手には負担になるだろう。
だけど、率直でありたい、と思うようになってきた。
逆に人に率直に接してもらったら、やっぱりとてもうれしいから。
下心のない純粋な気持ちは、人に伝わるのではないだろうか。
たとえば同じ言葉を発したときに、
相手が「うっとうしい」と感じるか、「うれしい」と感じるかは、
言う側の心の問題なのかもしれない、と思う。
安心したいがための心配と、ただひたすらの心配と。
一見、エゴと優しさは紙一重に見えるかもしれないが、
その心根にあるものは、大きく異なるのかもしれないな、などと
ぼんやりと考えている。