No.113の記事

補足

下の日記の補足。
仕事なりプライベートなりで、私と直接関係のある人が
これを読むと、きっと私には奢られたくない、と思ってしまうだろう。
だが、私自身は人に奢るのが嫌いじゃない。
もちろん、恩着せがましい気持ちにはならない。
実は私はお金には非常にアバウトで、なおかつ「金は天下の回り物」と
思っている。
宵越しの銭はもたねえ、という気質でもあるし、
そもそも、こういう仕事で生活していること自体が、
「きちんと働いている」ことになってないような気がするので、
これは逆にたまには人にご馳走しないと罰が当たる、と思っている。
私が下で書いたのは、あくまでも自分が奢ってもらった場合の話。

今週はお盆の影響もあって、なんだかのんびり過ごしてしまった。
それなりに打ち合わせ等はあったのだが、
立て続けに取材が入る、という状況ではなかったので、
気分的にはのんびり。
「パッチギ」という映画を見た。
1978年の京都を舞台に、日本人と在日の高校生の恋と、
青春を描いた作品。
クルセイダースの「イムジン河」がもうひとつのテーマとなっている。
「北へ帰れば楽園が待っている」と信じられていた時代。
そしてそれを推進した日本政府。
当時、発禁処分になった「イムジン河」という歌が
この映画の中では思い切り陽の目を浴びている。
とてもいいメロディ、そしてせつない歌詞。

映画自体は娯楽作品として作られているので、
あまり深刻な内容にはなっていない。
政治的背景、時代背景も踏み込んだものにはなっていない。
最後がハッピーエンドすぎるのも、ちょっと余韻がない。
それでもやはり、この映画はいいなと思った。
それは、軽さの中にある壮大なテーマのせいだ。
映画から、「愛はすべてを乗り越えられるのか」と正面切って
突きつけられたとき、どこか慄然とさせられるものがあった。
いろんな状況があるから、一概に「乗り越えられる」とは答えられない、
というのが、大人の回答だろう。
それは事実だけど、真実ではないのかもしれない、と思う。
「すべてを乗り越えられる」と答えられないのは弱さだから。
若いときなら、私も当然、乗り越えられる、と胸を張ったはず。
だが今、二の足を踏んでしまうのは、そうではない事実を経験として経たから。
でも心のどこかでは、乗り越えられる、と思いたいし答えたい、と
感じている自分がいる。
愛しているから強くなれる、ということばかりではない。
相手の気持ちを慮るゆえに、弱気になることもある。
それでも、もしかしたら乗り越えられるのではないか、という
気持ちは忘れてはいけないのではないか、と思う。
人は弱いから、周りからの圧力や「常識」や自分の中の「倫理観」に
めげてしまう。めげてしまうことがラクだったりもする。
まあ、愛という言葉に多少の抵抗はあるけれど、
「人が人を想う気持ち」の強さがあれば、実はいろいろな方法で、
困難を乗り越えることができるのかもしれない、と
映画を観ながら感じていた。
知恵と勇気と、道を切り開いていける明るさがあれば。

そういう意味では、どんな事態に陥っても、
「深刻になりすぎない」ことが重要なのかもしれない。
必ずどこかに道はあるはずだから。