No.155の記事

お先っぱしり

子供のころから、「お先っぱしり」と言われていた。
たとえば、親が「買い物に行ってきてくれない?」と言った瞬間、
すでに家を飛び出しているような、ちょっと大げさにいえば、そんな子だった。
何を買うと聞きもせずに飛び出してどうするつもりだったの、とあとでよく笑われた。
せっかちの粗忽者、という面は今も消せない。
思いついたら即行動、即発言、といえば聞こえはいいけど、
そのせいで、逆に人生、遠回りしていることもあるようだ。
急がば回れ、という諺もあったっけ。

自分が15年という長い時間、ずっと「こうだ」と思いこんでいたことについて
実はそうではなかった、とたまたま、わかってしまった。
それは決して悪いニュースではないし、私個人としては、かなりすっきりした。
自分にある種の決意があれば、とっくにわかっていたはずのことだし。
というわけで、自分自身には後悔もなにもないのだが、
自分の思いこみによって、結果的に人に迷惑をかけてしまっていた。
お先っぱしりもいいところだ。
お先っぱしりというよりは、完全なる独り相撲かもしれない。

お先っぱしりの女だから、「執着」とはあまり縁がなかった。
いや、基本的には仕事も人も粘っていい方向にもっていきたいと
思うタチだけど、粘りと執着は違う。
最近、自分が「執着」にとらわれているのだろうか、と妙な考えにとらわれる。
言葉をこねくりまわしてしまうよけいな気持ちや、
よけいな枝葉のような客観的感情が自分の中にあるのがとても疎ましい。
もっとストレートにシンプルに、幹だけで生きていきたい。
幹だけで生きていくには、肝心のその幹が太くないと倒れてしまうだろう。
ずっと、その場の本能的欲求と、その場の感情だけで生きてきたから、
ふわふわの根無し草が、太い幹を作っていけるのかどうかは疑問だが。
お先っぱしりは、一生、お先っぱしりから抜けられないのかもしれないなあ。
ただ、人に迷惑をかけてはいけない。それだけは自重しなければ。