No.157の記事

言葉遊びに近いけど

言葉遊びに近いと割り切って。
割り切らないと、言葉と思考は堂々巡りのドツボにはまる。
自分が使った「執着」という言葉が気になって、ちらと調べたところによると、
「欲望」の根拠には「執着」があり、その下には「自我」があるのだという。
ということは、人間は執着によってつぶされる危険性もあるということか。
個人的には、自我の崩壊というのは決して悪いことではないと思うのだが、
どこまでが自我の範囲かということにもよるだろう。
自我が自己存在を認識することまでをも含めるなら、崩壊するということはマズイ。
三島が言っていた、「自我」はどこまで含むのだろう。
自我が執着や欲望を克服していけるものなら、
愛情は他者に振り向けることができるのだろうか。
自我を抑えて、他者に愛情をもつことは可能なんだろうか。
他者を喜ばせたい、それが自分の喜びとなるとしたら、
それは自我を満たしたことにはならないのだろうか。
三島のいう「自我が有り余ると、他者に愛情を振り向けるようになる」というのは
そういう意味だと思うのだが。
簡単にいえば、幸せな人は他者をも幸せにできるってことか。
いや、これはあまりに短絡的。
べったりした自我の上に、頑固に横たわる執着、そしてその上に突出していく欲望。
そんな図式が見えてくる気がする。
それは克服すべきことなのか、自らの自我に呑み込ませてしまうべきものなのか。