最近の日記

年も改まり・・・

どこが日記なんじゃい、とまた自分にツッコミをいれるが・・・。

去年の3月から、何も変わってないじゃないかと日記を読みながら思っている。相変わらずウソ八百の東電と政府。そして瓦礫に食物、飼料に肥料と汚染はますます広がっていく。

こんなことになるなんて・・・。

食べ物を選ぶのではなく、少しでも安全そうなものを選んであるものでメニューを決める。そんな生活がもう10ヶ月も続いている。当然、窓は開けない、洗濯物など干せない。外出時はマスクで。帰宅時は外で洋服をばたばたと。花粉を落とす要領だ。

不摂生をなんとも思わない生活してきたけれど、それは自分が選んだこと。「事故」じゃなくて、あんな「事件」「人災」で健康を脅かされるのはまっぴらだ。

原発停止したからって安全じゃない。だけど、停止しなければ、今度、どこかに地震が来たときどうなるのか。なのに国は、40年たった原発でも条件によって20年稼働を延ばすという。

なぜ「稼働ありき」で話が進んでるんだろう。今度、どこかで事故が起きたら、もうどこにも住めない。
1年近くたつのに新エネルギー開発の話は聞こえてこない。なぜそれほど原発が大事なのか、わたしのような素人にはわからない。命より原発が大事なのか。個人あっての国。のはずなのに。

時代が変わっていく・・・

3.11以来、何かが変わった。たぶん、もう払拭できないような大きな傷を、特に東日本在住者は味わい続けている。もちろん被災地や被災者がいちばん大変なのだけれど、東京に住む私たちもまた、先が見えない閉塞感に覆い尽くされているようだ。

そんな中、訃報が次々と飛び込んでくる。キャンディーズのスーちゃんこと田中好子さん。女優さんになってからインタビューしたことがあったっけ。まっすぐにこちらを見て、微笑みを絶やさずに真摯に受け答えしてくださったことを思い出す。
サイババも亡くなったそうな・・・。特に興味はなかったけれど、一時期、すごい人気だったっけ。
個人的にはオペラ歌手のビンチェンツォ・ラ・スコーラの急死も驚かされた。5年くらい前だったか、サントリーホールでシコフ、サッバティーニと一緒に「グレイテスト・テノール」のコンサートを開いたことがあったなあ。

エリザベス・テイラー、岸田衿子、元ソニーの大賀典雄。そして個人的には講談社の社長である野間佐和子さん。

なんだか「あのころ」の人たちがいなくなっていく。そして時代が変わっていくのを実感している。

表に出てこない情報

地方選挙だ、余震だとニュースが多くなると、また原発関連の情報が薄れてくる。
ツイッターやらなんやらで、やばいことになっているという情報多数・・・。
何を信じたらいいのかわからない。

いろんなところでいろんな人が言っているが、とにかく正しい情報を出してほしいものだ。
1ヶ月がたって、少しずつ原発関連の検証もなされてきているが(昨日の讀賣新聞など)、それが真実かどうかはわからない。ただ、少なくとも情報が流れてこないことに、誰もがいらだっていたことだけはわかる。

きちんと情報を出したほうが、人はパニックにならないと思うのだが。
戦争体験者の母が言っていた。
「あのころに似てる。私たちは、日本は勝ってる勝ってると聞かされてばかりいた。なんだかおかしいと思っていたけど、正しい情報がない以上、どうしようもなかった。そのときと似てる・・・」と。

せつない・・・

福島県南相馬市の屋内待避地区で、地元の消防団や残っている住民たちが、自ら捜索隊を組んで、行方不明者を捜しているのだという。
放射線の値が高いから、と自衛隊も警察も近寄らない。探してもくれない。だから住民たちは立ちあがった。

そのニュースを見て、とてもせつなくなった。国はもっとできることがあるのではないか。どう考えても丸腰の住民よりは自衛隊のほうが装備をもっているはずなのだから。
どんなに困っていても相談しても、行政はまったく動いてくれないと私も憤慨したことがある。変わらないんだな、どんな状況であっても・・・。

一向に何も進んでいないように見える。ことは悪いほうへと転がっていく。汚染水の流出を防ぐために、おがくずだ、新聞紙だと聞いて、目の玉がひっくり返るほど驚いてしまう。
汚染水除去専門家のフランスチームは何処へ? 全面協力するはずのアメリカは? 政府とのやりとりはどうなっているんだろう? 

低レベル(って、どんなレベルだ・・・)の汚染水を意図的に流した件で、韓国は不快感を表している。当然だろう。世界中に迷惑をかけている、という当事者意識は国にはないのか。そして国民を危険にさらしているという意識も・・・。

食べ物

われわれが日常、いかに多くのものを食べているか、このところ実感させられる。

栄養について考えなくても、バランスよく食べる習慣がついているのだろう。だから、偏った食事をすることができない。1週間ばかり乳製品がとれなかったのだが、それだけでどこか体も気持ちもおかしくなっている。
乳製品をとって、ようやくほっとした。体が欲していたことを実感できた。

被災地の人は、温かいごはんと温かいお味噌汁を口にできていない。肉や魚や野菜、豆腐に納豆、そういったものをいろいろ味を変えて食べる、というごくありきたりの食事ができていない。おそらくそれは、精神的にも影響があると思う。

食事は空腹を満たせばいいというものではない。体も心も食べ物からできている。

覚悟と責任

覚悟が遅れると判断が鈍り、結果的にすべてが最悪の方向に転がっていく、という事例を、私たちは毎日、目の当たりにさせられている。

問題が起こった当初、なぜ菅さんはアメリカから保冷剤をもらわなかったのだろう。廃炉にしたくなかったからだろう。このままだと危ないことになりますよ、となぜ誰も言えなかったの? 廃炉どころじゃないことになりますよ、と言える人はいなかったの? 責任とらされるのが怖かったの?

恩返しはあとから考えればいい。今はとにかく、政府が見栄もプライドも捨てて、世界中に「助けて」と叫び続けたほうがいい。

怯え

トイレットペーパーにティッシュに乾電池、そして水。相変わらず店頭にはない。

ある店では、店員さんが「みなさん買い占めてるんですよねえ」とため息混じりに話してくれた。買い占めに走らなかった者が、今になってあたふたしているということか・・・。いえ、私のことですが。

かと思えば、「水? 野菜? 全然気にしないわ。普段通りよ〜」というたくましい人もいる。人それぞれということか。

揺れてないのに「わ、地震?」と言う人が多い。地震酔いというのがあるそうだ。
揺れる地面、見えない放射能・・・。
どこかで常に怯えている自分がいる。

淡々と熱く・・・

どこか生活の手順がおかしくなっている。下地クリームを忘れてファンデーションを塗ってしまったり、エレベーターに乗って行き先階を押すのを忘れ、「わ、動かない。地震?」と焦ったりする。

自分では平常心でいるつもりなので始末が悪い。こういうときは何かミスをしないよう、気をつけなくては。

政府の言うことが信じられない。経産省保安院の言うことが信じられない。大本営発表の裏には、いつも重要かつ国にとって都合の悪い「真実」が隠されていると思う。

NHK解説委員の水野倫之さんの話はわかりやすい。あの顔を見ただけで、今日は怒っている・・・とわかる。彼が怒っているときは、公的に発表されている以外に、何か別の真実があるのではないか、と言葉の深読みをしてしまう。

自分にできることをするしかない・・・

震源地近くに比べれば小さかったけれど、11日の地震はここ東京でも、とてつもない揺れだった。のんびりとぬか漬けでも作ろうと、野菜を出したとたん、ぐらりと来た。つけていたテレビから、緊急地震速報のサイレンが流れる。
それを見る間もなく、さらに大きく揺れ始める。携帯電話を握りしめ、逃げ道を確保するために玄関を半開きに。立っていられないほど揺れていた。玄関の柱に手をついて、ただひたすら堪えるしかない。がさっわさっと建物がしなる。部屋でものが落ちる音が響く。長い長い揺れだった。その30分後に起こった地震でもまた、建物がわさわさと揺れた。

頑丈な木の本棚が倒れた。もし寝ていたら、角が眉間に当たってとんでもないことになっていたと思う。倒れた本棚をひとりで起こすのに6時間かかった。気持ちがへこんだ。

あれから2週間。世の中がすべて変わった。災害というのはこういうものなのだと実感している。津波、原発。水の心配。そして都内の店からものが消えた。食べ物、トイレットペーパー、ティッシュ、生理用品、電池、そしてもはや水はまったく手に入らない。

落語会も自粛、自粛。イベントも中止。東京から笑みや活気が消えている。

誰もが半分、被災者であるという自覚がある。それでも、誰もが何かをしなくてはいけないと焦っている。そして私も・・・。

いろんな人に甘えた。「怪我などありませんでしたか」という一言に心がなごんだ。ないものを送ってくれるという人に手を合わせた。

ナイトゲームを強行しようとしたプロ野球に批判が集まった。もっともだ、と思う。とにかく電気が足りないのだから、それはしかたがないのかもしれない。

だけど・・・気持ちまで縮こまってはいけない。ようやくそう思えるようになってきた。テレビに映る被災地の子どもたちの顔を見ると、少しだけ心がなごむ。「希望」という言葉を簡単には使えない、使う気になれない。だが、子どもの笑顔はやはり、いい。

半年ぶりの日記・・・?

前の項に、冬のオリンピックなんて書いてあるので我ながらびっくりしてしまった。

この夏は本当に「なんだかなあ」の日々。暑すぎる。直射日光の鋭さもさることながら、蒸し暑さに耐えられない。息苦しい。このままいくと日本は本当に亜熱帯となるのではないかと思うほど。
私が子どものころの夏は「今日は30度を超えた」と話題になったくらいだし、夕立があればあとはひんやりした風が涼しくて、夜は花火をして遊んだものだ。
クーラーもなかったけれど、冷えたスイカがあれば満足だった。麦茶にアイスにスイカ。夏の三種の神器か。

熱中症で亡くなる高齢者、死亡届が出されずに消える高齢者。高齢者の話題がこのところ多い。高齢者が社会の邪魔者みたいになる空気がイヤだ,怖い。

人々がどこかいらついているのは、暑さのせいだけではないだろう。雇用を生むといいながら、何の対策もとれない政府。失業者が増え、親殺し子殺しが増え、そして社会は暗くなる。

ぎすぎすした世の中

冬のオリンピックたけなわ。スノーボードの国母選手が「服装問題」で大批判を浴びている。テレビを見た一般国民が、しかるべきところへクレームをつけたとか。

世知辛い世の中だ。彼の服装がいいとか悪いとか言う以前に、そんなことでいちいち批判をする人の気持ちがわからない。マスコミも、そんな幼稚な意見は放っておけばいい。協会側もわざわざ会見など開く必要があるのだろうか。

もう時効だと思うけれど、高校時代、シャツのポケットにたばこを入れている生徒がいた。教師は、「見えるところに入れるな。学校内で吸い殻を捨てるな」と言った。たばこを吸ってはいけないとは言わない。つまり、問題を起こして損をするのは自分だぞ、何かやるならうまいこと隠せ、と教えてくれたのだろう。

「大人になる」というのは、そういうことだと思う。自分の主義主張を貫くのは悪いことではないけれど、一般的にそれが「通るか通らないか」については、敏感であったほうがいい。世渡りするというのは、どこかで妥協していくことだ、ということを国母選手に教えてやれる大人はいなかったのだろうか。

つまりは、自分と世間のバランスの問題なのだろうと思う。

ただ世間の「一般常識をもつ大人たち」も、些細なことで目くじらを立てない寛容さをもってもいいのではないだろうか。

今さらながら・・・

あけましておめでとうございます。

毎年のことながら、年賀状をくださったみなさん、ありがとうございます。賀状を書かなくなって早数年、書きたい気持ちはあるのですが、なぜか毎年、年末年始は執筆作業に追われているので失礼しております。

ここを見てくださっているみなさま、仕事関係のみなさま、今年もよろしくお願いします。
今年も、何か自分なりのテーマを見つけて、がんばっていこうと思っております。

日本人のメンタリティ

日本人のメンタリティが変わってきた。最近、そんな気がしてならない。去年暮れ、ニュースで子供連れの若いお母さんが、子供手当に関するインタビューに答え、「なんでもいいんですよ。こっちはもらえさえすれば」と笑っていた。

日本人って、「お上」の世話にはならないという矜恃をもっていたような気がするのだけれど。
「ワーキングプアになるくらいなら生活保護をもらったほうがラク」などという声も聞く。
「もらえるものはさっさともらう」
「ラクなほうへ流れる」
それがいちばんだという価値観が、いつしか根付いているようだ。

政治が悪い、社会が悪い。
それはいつの世も同じではなかったか。
裕福でなくても、心豊かな生活はあるはず。
本当に困っている人と、ラクしたい人。
それを見分けなければ、社会はますます悪くなる。

自死について

加藤和彦さんが亡くなった。
「オラは死んじまっただ〜」という歌は本当に懐かしい。あの声をまねして歌うのが、子どもたちの間で流行ったっけ・・・。

切ない思いをしていたとき「悲しくて悲しくて〜とてもや〜り〜きれない」という歌を聞き、まさに今の私だわと思ったこともある。

早く世に出すぎた天才は、早く息切れするのかもしれない。それが宿命なのかも・・・。

仕事でよく行った六本木に、彼の自宅があった。独特の風情ある家だなあとよく思っていた。

私は自殺を否定も肯定もしない。しかも自死について、他人は何も言うことさえできない。その人が選んだ道を静かに見送るしかないと思っている。合掌。

人の命は・・・

お世話になった方が亡くなっていたのを今日知った。
あんまりびっくりして、言葉が出ない。ついこの間まで話していたのだから・・・。
お線香を上げさせてもらい、写真を見たら涙が出てきた。

こんなことならもっと話せばよかった、とふと思う。今夜は彼女のことばかり考えてしまう。

マイケル・ジャクソンの死

同世代の天才的エンターテイナーの急死。
なんだかせつない。

若くして何もかも得てしまい、自分がどこを向いたらいいかわからなくなってしまったのだろうか。スキャンダルにまみれたこの10数年。本心をわかってくれる人はいたんだろうか。

誰にとっても「本心をわかってくれる人」なんて、ひょっとしたらいないのかもしれないけど、凡人は適当にお茶を濁し、友だちと笑って過ごして、まあ、いいかと気持ちをおさめていく。彼には気持ちのおさめどころがなかったのだろうか。

それでも「スリラー」を見ながら思い出した。自分自身も若いころ、このビデオを見てわくわくしたことを。
今日、MTVで「JAM」という曲がかかり、中でマイケル・ジョーダンと共演しているのを見た。ジョーダンにシュートを教えてもらうジャクソン、ジャクソンにダンスを教えてもらうジョーダン。(ジョーダンはリズム感がいまいちでダンスが踊れない)
どちらの「天才」も、異質の天才に出会って楽しそうだった。

もったいない「死」だけれど、これでよかったのかもしれないなあと少しだけ感じてしまった。

落語ベスト10

掲示板に「愛読者の一人」さんが書き込んでくれた、新聞アンケートでの落語ベスト10

1.百年目
2.井戸の茶碗
3.居残り佐平次
4.天災
5.らくだ
6.小言幸兵衛
7.大工調べ
8.壺算
9.厩火事
10.中村仲蔵

全部、ナマで聴いたことがある。寄席ではよくかかる噺ばかりだし。
ところで、私なら、何を選ぶだろう。もちろん、「誰がやるか」が決定的ではあるが、自分の好きな噺家さんがやると仮定して、好きな噺、という観点だけで選んでみると・・・。

ベスト10というランキングはつけられないが、好きな噺・・・となると。
井戸の茶碗は入れたい。居残り佐平次、中村仲蔵も入れたい。
あとは、芝浜、子別れ、文七元結、鼠穴、鰍沢、百川、品川心中・・・あら、大ネタばかり。
雪の瀬川というのも、いい噺だし、唐茄子屋もいいなあ。幾代餅も大好きだし、妾馬もいい・・・。意外と、二番煎じなんてのも気楽に楽しめる。
ばかばかしいけど天狗裁きとか、粗忽長屋、不動坊も好き。
佃祭も捨てがたい・・・。一眼国も。
やっぱり10個選ぶなんて至難の業。

だけど、自分が好きな噺、という観点で落語を見てみるのもおもしろいと改めて思う。

気になること

裁判員制度をにらんだ裁判がおこなわれている。大きなモニターに映し出される肉片やら骨片やらを見て、裁判員が、本当に心身に異常をきたしてしまったらどうするのだろう。メンタルケアはするというが、ケアしきれないほどの傷を負ってしまったら?

こういうことって、受ける側の感受性やら過去のできごとやらに起因することが多いから、同じように同じものを見ても、同じように大丈夫とは限らない。

心の傷が深くなって、働くことさえできなくなったら、国はきちんと今までと同じだけの生活ができるような費用を払ってくれるのだろうか。

憲法にはこんなことが決められている。
〔奴隷的拘束及び苦役の禁止〕
第18条何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

裁判員がこれに当たることはないのだろうか。

2009年

あけましておめでとうございます。って、すでに10日もたってしまいましたが・・・。
年賀状を書かなくなって早数年、仕事関係の方々、年賀状をいただいた方々には申し訳ないことでございます。

今年ほど「お正月」を感じなかった年もない。
そもそも、年が改まる時間帯、私はすでに夢の中〜だった。情けない・・・。
いつにもまして、だらだらし続けた正月。本当はせっせと仕事をするはずだったのだけど。
その代わり、テレビで落語を見続け、松の内に2回も寄席に行き・・・。
落語の登場人物たちのように、今年もノーテンキに、だらだらとがんばってみようと思う。

他人事じゃない・・・

先日夜、女友だちと繁華街を歩いていたら、段ボールハウスで寝ている人の横を通り過ぎた。彼女は、
「最近、ああいう人を見ると他人事じゃないと思っちゃう」と言った。まだ若くて、大企業の正社員で、専門職に就いている夫もいて・・・。そういう人の「他人事じゃない」って、どのくらいの意味合いなんだろう、とふと思う。

正社員だからこそ、リストラを恐れるのだろうか。リストラされたからといって、段ボールハウスに住むようになるとは限らない。
フリーランスでひとりものの私のほうが、彼女よりずっと段ボール生活に近い。
「自分がぎりぎりのところにいる」感覚は常にある。だからといって、「他人事じゃない」と言った彼女を責めるつもりは毛頭ないし、私のほうが大変なのよという気もないけれど・・・。

人には、おそらくその人なりの「ぎりぎり感」があるのだろう。
飯島愛さんの孤独死、これもまた他人事ではなかった。明日は我が身・・・つくづくそう思う。