最近の日記

まだまだ未熟

たくさんの人に会ったり、いろいろ神経を遣ったりすることが続くと、
高熱を発することがある。年に1度か2度・・・。
もともとどこか楽天的で、最終的には開き直ってしまうタイプなのだけど、
なかなかそうはいかないこともあったりして・・・。
今週の始めもそうだった。1日ですっかり治ってしまったけれど。
はやりのデドックスを、自ら自然におこなっているのだろうか。
体内毒素を自分で出して。そのための熱。そんな気もする。

というわけで、気分も身体もすっかり元気。
と思っていたら、昨日は品川駅前で、思い切り派手に転んだ。
ちょうど雨が降っていて、革底ヒールが滑って・・・。
完全に尻餅をついた。今年いちばんのお気に入りのピンクベージュの
革のロングコートが泥まみれ・・・。
ついでに私の後ろを歩いていた若い女性が、驚いたらしくて悲鳴を上げたので、
衆人環視のもと、めちゃめちゃ恥ずかしかった。
そのままダッシュで駅のトイレに駆け込んで、とにかくコートをひたすら拭く。
泥水がしみこんだら・・・と焦りまくって必死の形相だったかも。
ほとんどわからないくらい、キレイに落ちて一安心。

しかし、私はけっこうよく転ぶ。
雨の日だけではない。
注意力散漫なのだろう。常に何かに気をとられている。
もし急死するとしたら、どこかで転んでそこへ車が、とか
およそ人が転ばないようなところで転んで打ち所が悪くて、とか
なんだかそういう間抜けなことになりそうな気がする。

混乱、混沌、昏倒?

ちょっと韻を踏んで遊んでみただけだが、
どうもこのところ、頭が混乱している。
頭が混乱、気持ちは混沌、といったところか。
自分がまっとうなのかどうか、判断がつかない。
感情の浮き沈みが極端に激しい。
あることが、些細なことなのかどうか、わからなくなる。
だけどそれは他人が判断することじゃない、とも思う。
「何か」に固執すると、たいていこういうことになる。

本が出て、取材なども受けたりしているのだが、
そういうことがあればあるほど、実はもともとあってないような自信が
急速に喪失されていくのがわかる。
その自信は「書き手としての自信」ではなく、もっと自分自身に根ざしたもの。
書いたものは、そのまま「自分」なのだから、
書店でもネットでも、「書いたときの自分」が全裸でさらされているような気になる。
さらに自分のしていることに意味が感じられない、
生活に現実感がもてない、人が信じられない、という
ある種の精神的危機にさらされる。

最初に本を出してから9年目になる。10数冊の本を書いた。
書けば書くほど、本が出る前後の精神状態は錯乱していく、ような気がする。
最初は出せてうれしい〜というだけだったのだが、
今は出すたびに恐怖感が募る。
自分を守るものがない、と思う。
書けば書くほど、自分を守る術も失われていく。
だからもっと書かなければ、と思う。
現実生活と自分の精神状態が乖離していくようだ。

しかし、ちなみにこれを見て「大丈夫かいな」と不安になった
編集者の方へのエクスキューズもしておかなければ。大丈夫です。

舞台に求めるものは・・・

今月おもしろかったのは、やはり文楽。
このところ、歌舞伎よりなぜか人形に惹かれる。
曽根崎心中、天網島時雨炬燵、どちらもうるうるきてしまった。

さらに日本初演、たった1日限りの横浜でのオペラ「バヤゼット」。
これが素晴らしかった。
オペラで大事なのは、やはり「声」。
演出偏重の昨今のオペラだが、今回のバヤゼットでは、
特に演出が突出することなく、「声、声、声」で迫っていた。
これがやはりオペラの原点なのだなあ、と納得。
話自体は、それほど複雑でもなく、
人間心理が、正直言って深く掘り下げられているわけでもない。
だが、その心理はすべて「声」によって表現されることで掘り下げられて
いるように感じられてしまう。
それこそが舞台芸術。酔わせてくれることが大事なのだから。
オペラって、歌って、音楽って、楽しいんだなと思わせてくれる舞台だった。

しかし・・・人間の声ってすごいものだ。
そして声が織りなす技巧もまた・・・。

さぼってる・・・

日記もさぼりがち、仕事もさぼりがち・・・。
急にふっと疲れが出てしまったのか、昨日も今日も一歩も出ず・・・。
起きあがる気になれず、ひたすらベッドとお友達。ごろごろだらだら。
ま、たまにはいいか、とあっさり怠け者の自分を許す私。
本当に自分に甘い。

オリンピック、モーグルもスノーボードも日本勢敗退。
私は別に日本がんばれ、みたいな気はないのだけど、
やはり「オリンピックには魔物が住んでいる」のだろうなあ。
この日を目指してがんばってきているのは、みんな一緒。
実力を出せる人、実力以上のものを出せる人、実力の半分も出せない人。
もちろん、メンタルの強さの違い、と言えるのだろうけど、
果たしてそれだけなのかなあ、と思うところもある。

雪が降ってきた

雪だ〜。
また少し積もるらしい。
今年はまれに見る厳冬。
豪雪地方の人たちは本当に大変だと思う。

年末から、籠もって仕事をしている日が多い。
佳境に入ると、疲れると少し寝る、また起きて仕事する、の繰り返し。
夕方寝たり、昼間寝たり、と小刻みに寝ているので、
なんだか人間としての生活ができていないような気がする。
「真人間」になりたーい。

アウトプットが続くと、だんだん自分がすり減ってくるような気がする。
こういうときは、ふらりとどこかへ行ってしまいたいのだが、
今年はそういうわけにもいかず・・・。
「とにかく働く。本を出す。たくさん仕込みもする」のが今年の目的だから、
どこまでがんばれるか、やってみようと思う。
たまに自分を追い込む時期があってもいいだろう。

それにしても・・・。
去年あたりから思っているのだけど、
「人との縁」って不思議だなあ、とつくづく感じている。
いろんなことが流れていって(悪い意味ではなく)、
人はいつも動いているのだなあ、と。

生誕250年!

昨日1月27日は、モーツァルトの生誕250年だそうだ。
250年前というと、1756年。
日本では江戸時代も後半に入り、九代目将軍家重の時代。
そこから35年の生涯を、モーツァルトは駆け抜けたことになる。

今年はヨーロッパはモーツァルトイヤー真っ盛り。

私は家にお篭もり状態。原稿執筆が続く。
なかなかいい調子で書けているので、(内容はともかく)
このまま続けるぞ〜という感じだ。
今回も最初はつらかったけど、途中からだんだん乗ってきて、
ご飯食べようよ〜、というお誘いも、
遊ぼうよ〜というお誘いも、珍しく断ってのお篭もり。
友だちから応援グッズもいただいたりして、
すべて食べ尽くしながら、がんがん書いている。
書くのが楽しい、と思える一瞬。
後半戦、再度、あの苦しみがやってくるのだとわかっているので・・・。

寒さが身にしみる

そういえば、「体の中を風が吹く」という小説があったなあ、とふと思い出す。
佐多稲子さんだった。
ここ数日、また寒さがぶり返して、まさに体の中を風が吹き抜けていく感じ。
心がぽかぽか温かいかといえば、そんなこともなく。
あったかくなったかと思えば、急にせつなくなって冷え込んだり。
いつもながら、気持ちを穏やかに保つ、というのはむずかしい。

1月は超大作オペラ「ニーベルングの指輪」(マリンスキー劇場)も
あったし、坂田藤十郎襲名もあったし・・・。
だが、劇場は行くだけでやっと、という状態。
年明けからやたらと締めきりが続き、合間に取材やら打ち合わせやら。
そこへ穏やかな気持ちやら嵐のような気分やらが襲来してきて、
気持ちを切り替えられないまま、へろへろになっている。

波にもまれているようなこの状態、決して嫌いではないんだけど。
それでも、とてつもなく、せつなくなることもあって・・・。
せつない、というのは上質の感情だ、と以前、何かで読んだことがあるけど、
他人事ならいざ知らず、我がこととなると、そうもいかない。
せつなさも手のひらで転がせるようになれるといいのに、と思ったりもする。

脱出

締めきりに追われて、お尻に火がつき、沈みがちな気分を脱出。
結局、現実のほうが強いということか・・・。
ときに沈むことも悪くはない。自分を振り返れる時間になるから。
沈む、というよりは、あれこれ考えてもしょうがないことを
考えてしまうだけなのだけれど、そういうときはプラス思考になるはずもないから、
ついつい結果的に沈んでしまうのだろう。
それも自分の特質と考えるしかないのだけれど。

女友だちと話していて、「業が深い」と言われた。
私は彼女のほうがずっと業が深い女だなあ、と思っていたので、
笑いあってしまう。
自分のことは自分ではなかなかわからない。
というか、自分が思っている自分と、他人が思っている自分との間には
いつも何らかのギャップがある。
人間は時と場所に応じて、それなりに仮面をかぶるものだし、
仮面もまた自分である、と認識していればいいような気もする。
業の深い友人は、その業の深さ故、苦しんでいるのだが、
私は私で、自分自身をもてあましているようだ。

いずこも同じ・・・?

敬愛する女性作家の方のHPを見ていたら、
日記に「いくつになっても、自分とは何だろう」という苦悩から抜けられない、と
書いてあった。
うーん、いずこも同じ・・・と、ちょっとほっとする。
もう少しだけ要領よくいろんなことをこなしていければいいのだけど、
日常生活から逸脱したところで生きているので、
常に「どう生きるべきなのか」とか「人間って何?」とか、
そういう疑問や息苦しさから抜け出すことができない。
答が出ないことだから考えなくていい、ということにはならないだろう。
おそらく生きている間中、こういう苦悩からは抜けられない。
もちろん、誰もがそうなんだろうけど、
日常生活がしっかりしている人は、きっともう少し、
現実的な希望や現実的な悩みを抱えているのではないだろうか。
どちらがいいとは言えないけど。

ふと虚しくなるとき

人は誰でも、大きなものから小さなものまで、さまざまな問題を抱えて
生きているものだと思う。
そんなもんだ、常に充実感を覚えて生きているわけじゃない。
それでもふいっと、生きていることに虚しさを感じることがある。
思春期じゃないから、「ここはどこ? 私は誰?」と
思いつめて思いつめて、自分を追い込んでしまうわけではないけれど、
(今の年齢でそんなことしたら、本当に死ぬしか選択がなくなってしまう。
本能的にそういう追いつめ方は避けているのだろう)
ふと感じる、生きていくことの虚しさ。
おそらく将来への展望がないからだろう、とわかってはいるのだけど。
突っ走って突っ走って、ある日、ことりと息絶えたら、
それがいちばんの理想だけど・・・。

落ち込んでいるわけでも、鬱状態になっているわけでもないけど、
少しだけ「虚しい」という気分になった。久々だなあ、こういう気持ち。
孤独だとか寂しいとか、そういう気持ちにはけっこう慣れっこだけど、
虚しいってのはちょっとねえ・・・。
きっと運動不足。鍛え直そう。

不思議

東京三菱銀行とUFJ銀行が合併して、どうして三菱東京UFJになるのかなあ。
東京三菱UFJじゃないの? と、ちと不思議。
素人にはわからない力関係なのかな。

新年が始まって1週間、すでになんだかお疲れモードの私。
飛ばして仕事をしすぎたか・・・?
もとが怠け者だから。
というわけで、松の内に歌舞伎座に行かなくては、と行ってきた。
坂田藤十郎襲名興行。
藤十郎はんの「政岡」、あまりの気魄に度肝を抜かれ、
乳人の哀れさをすっ飛ばして、すごい舞台になっていた。
拍手するのも泣くのも忘れるくらいのド迫力。
芸の力のすさまじさを感じた。

恋人までの距離

昨夜遅くに、テレビでやっていた映画「恋人までの距離(ディスタンス)」。
タイトルは知っていたけど、たまたま最後のほうだけ見てびっくり。
わお、舞台がウィーンではないか!
あの街並みを見て、それだけで泣きそうになってしまった。

世界各国、あちこと行ったことがあるわけではないけれど、
最初にウィーンに行ったとき、なぜかすごく懐かしかった。
あの感じ、他の場所では覚えたことがない。
それ以来、ウィーンに行くと、いつも「帰ってきた」ような気がする。

映画のほうはどうやらウィーンで知り合った、
パリに住む女性と、アメリカに住む男性が恋に落ちるという
ストーリーのよう。
最後は半年後の再会を約して別れるのだが・・・。
去る者日々に疎し、という言葉もあるしなあ、
恋人までの距離かあ・・・と妙な感慨にふけってしまった。
サザンの曲で、「たまに会ってるだけじゃ、お互いのことわからない〜」とか
いうのがあったなあ。

「人はなぜ恋に落ちるのか」(ヘレン・フィッシャー著 ソニーマガジンズ刊)を
読んだが、なぜ恋に落ちるのか、やっぱりわからなかった。
わからなくてよかった、という気持ちもある。
本の中に「恋する気持ちは突然生まれる」という項があったけど、
確かにそう・・・。
私はむしろ、突然、気づくほうかもしれない。
感情の変化が先で、気づきがあと。
多少なりとも、その人に「ぐらぐらっ」ときているのは
わかっているけど、「あ、恋だったんだ」と気づくのは少し遅れる。
正月の間、つらつら考えていたのだけど、
私にとって、ヤバイ恋(常軌を逸してしまうほど惹かれる)の始まりは、
相手に、ある種の「狂気」を感じたとき。
いや、もちろん、その人自身が「アブナイ人」というわけではなくて、
潜在的な狂気を持ち合わせていると、
こっちが勝手に判断しているだけなんだろうけど。
それを感じたとき、ぐっと入り込んでしまう。
そして、こういう恋は、たいてい、あまりいい結果をもたらさない。

もしかしたら、それはこちらの狂気を触発されるということなのかもしれない。
恋なんて理屈じゃないんだけど、
私にとっては、やはりどこかで常に狂気に近いものを孕んでいる。
非常に常識的な中に感じる一瞬の狂気というのは、色気にも似ている。

新年

いつの間にか新しい年になってしまっていた。
何のけじめもなく暮らしているので、新年の感覚もあまりない。
今日は昨日の続きであり、今日は明日への助走。
過去は切り離せないし、未来もまた、今日の自分の続きでしかない。

縁起でもないけれど、やはり私は、人生、どこでどうなるかわからないと
思っている。だから、今日1日を大事に過ごすのがいちばん。
運良く生きていれば、今日の積み重ねが未来へとつながっていく。
後悔しない生き方はできない。
でも、人は希望がもてなければ生きていけない。
「どう生きるか」というのは、いくつになってもわからないもの。
だからこそ生きていけるのかもしれないけど。

振り返らずに進んでいこう

1年を振り返って・・・なんていうのは、ガラにもないのでやめておくとして・・・。
芝居を始め、ナマ舞台には相変わらず数多く通ったけど、
今年は全体的に低調だったような・・・。
心に残っているのは、文楽「女殺油地獄」と、
サンカルロの来日オペラ「ルイザ・ミラー」くらいだろうか。
一方、落語は楽しかった。
若手で一押しの菊之丞さんへのインタビューもできたし、
小三治さんの会にも何度も通った。
寄席に行くと、「あれれ、この人、いいな」と思う噺家に出逢えるのも楽しみ。
ナマ舞台は、とにかく数多く通うしかない。
こちらの気力体力が充実していないと、舞台自体も味わえない。

本を1冊しか出せなかったのは不徳の致すところ。
来年はもっとがんばらなくては。

暴飲暴食

珍しく、忘年会という名のもとに人と集うことが増えて、
このところ暴飲暴食気味。
私はとにかく、目の前にあるものは何でも食べ倒してしまう。
食欲は衰えないものだなあ、と実感。
作るのは苦手だけど、食べるのは得意。

先日、美容院で雑誌を読んでいたら、
VOGUE2月号に、大事な友だちが書いた本が紹介されていた。
これは『女職人になる』(アスペクト刊)というノンフィクションで、
書いたのは鈴木裕子さんというライター。
彼女自身が興味のある「和」の世界で職人としてがんばっている
女性たちに焦点を当てて密着、なぜ職人の世界に入ったのか、
どうやって生計をたてているのか、将来の展望は、などを
本人から綿密に聞き出して、まとめているとてもいい本だ。
職人になりたい人はもとより、「自分の夢を実現したい人」
「一歩、踏み出せなくて迷っている人」に是非読んでほしい。
この本に目をつけるなんて、VOGUEの書評、やるじゃんって思った。

出会いと縁と運

今日、取材したある人が、「人間って出会うべきときに出会って、
ある時期をともにしても、必要としなくなったとき別れることになる」と
言っていた。
確かに恋愛関係において、「もうこの人から得られるものは何もない」と去っていく女性たちはいる。
でもそれは、恋愛を損得で考えすぎじゃないかなあ、と私は常々思っている。
恋愛から「得るもの」は、「結果」でしかなくて、
そのときは「好きだから一緒にいたい」というシンプルな気持ちが
いちばんいいのではないだろうか?

出会いは確かに不思議な縁に満ちている。
続くかどうかは、運とタイミングもあるだろう。
必死に努力すればいいというものでもないのが、人間関係、特に恋愛関係の
不思議なところでもある。努力が報われない、という理不尽さがある。
何もしなくても、うまくいくときはいってしまうものだ・・・。

誰かを思うとせつなくなったり、不安になったりするのは
恋している証拠なんだろうか。
恋ってイメージではきれいだけど、現実は決してきれいなものじゃなくて、
精神的にきりきりと追いつめられるようなものではないか。
長く続けば穏やかにシフトしていく恋があるのも、わかってはいるのだけど。
いくつになっても、恋とか男女の関係に関しては、素人でしかない。

映画「愛と殺意」

先日、テレビで深夜にやっていた映画「愛と殺意」。
1950年のイタリア映画で、監督 脚本はミケランジェロ・アントニオーニ
出演は、マッシモ・ジロッティ、ルチア・ボゼ、ジーノ・ロッシなどなど。
財閥の妻となった若くて美しい女性には、秘密の過去があり、それを探偵が
探っていく、というサスペンス。だが、一方で、彼女の現在進行形の秘密の恋が
むせかえるような濃密な色香に満ちている。
このモノクロ映画、なんともいえずいい。
夫の経済力は手放せない、だが愛する男とは心身共に離れられない。
すべてをほしがる女が次に求めるのは、夫がいなくなること・・・。
だが結末は・・・。という映画なのだが、とにかくルチア・ボゼの美しさが光る。
昔のイタリア映画って、ほんと、なんともいえない雰囲気がある。

鬼が笑う?

すでに来年出る本の打ち合わせが進んでいる。
うまくいけば=私ががんばれば、ということだが、来年は
本が4冊くらい出せそう・・・。
今年は怠けて1冊だったから、なんとか来年、帳尻を合わせたいところだ。
目標は毎年2冊以上、なのだけど、なかなか思うようにはいかない。
思うようにいかないのもセ・ラ・ヴィなんて言ってると、
ますます怠けてしまうばかり。

雑誌の仕事ばかりしているときは、今よりずっと忙しくて、
締めきりを何本やれるか、なんて限界にチャレンジしている状態だった。
今は通常のライター仕事が減ったせいもあって、
時間との勝負、ということはあまりない。
だが、そうなると別のプレッシャーがかかってくる。

今日は某社の編集者ふたりと食事にカラオケ。
これって打ち合わせというより遊んでる状態か。
だが、編集者との親睦というのは、本当に大事だ。
特に本の場合、編集者と密接な関係、本音が言える関係にならないと、
なかなか納得のいくものは書けない。
編集者に媚びる気はないけれど、互いの理解は絶対的に必要。
リラックスした場でこそ、人は本音を語る。

討ち入りの日かあ

もう14日になってしまった。
赤穂浪士討ち入りの日、だ。

私は決して思想的には、右寄りでも左寄りでもないのだが、
人としての「志」や「心意気」「矜恃」をもった人を尊敬する。
現代には、あまりにそういうものが少なくなってしまったから。

先週は、「歌わせたい男たち」「母・肝っ玉とその子供たち」と
芝居2連発。
前者は「君が代」をめぐる教職員たちの物語で永井愛さんの芝居、
後者は戦争を生き抜いた肝っ玉母を描いたブレヒトの名作。
いずれも思想、戦争などを考えさせられた。
私は個人的には君が代は歌わない。
たまに祝祭的意味合いのあるオペラなどで、
事前に君が代を演奏、観客を立たせることなどがあるが、
私は立たないし歌わない。
そのあたりにはまだ抵抗を残している世代なのかもしれない。

久々の・・・

以前、取材で知り合った人が電話をくれた。
あれこれ話している中で、「長いつきあいができればいいなと思って」という
一言が、ものすごくうれしかった。
出会いをこうやって縁にしていこうという人に触れると、心が温かくなる。
こちらから取材対象者にいつまでも拘泥していては悪いな、と思うから、
なかなか長いつきあいにはなれないものだけど、
向こうがそう言ってくれるのは本当にうれしい。

去る者日々に疎し、というし、私はどこかで人に対する畏れがあって
距離感を測るのに四苦八苦してしまうので、
相手がすんなり近づいてくれるのは、とてもありがたい。
職業柄か、人を観察するのは好きなんだけど、
自分から近づくのは、実は苦手だったりする。

近所づきあいも親戚づきあいもないから、こういう関係はほっとする。
これもまた、「名前のつけられない関係」なんだろうな、と思う。