最近の日記

またまた号泣

今日はファジル・サイのピアノコンサート、
その後、銀座で、例のフェスティバル・松竹の古い映画「祇園の姉妹」を観る。
溝口健二という人は、小津安二郎と比べられた監督。
私自身は、どちらかというと溝口ファンでもある。
あの長回し、そして、なぜか画像に色気がある。
色気、というのはもちろん、抑えたところにも表現されるわけで、
それは、ある種の「品」とも切り離せない。
露出の高い服を着ていれば色っぽいか、というとそうではないのと同じこと。
ストイックなところに表れる色気、というのもある。
色っぽさ、というのは「その人らしさ」だという説もあるから、
自分自身の生きる道筋がはっきりしている人ほど、色気のある人ともいえる。

日曜深夜の私の定番テレビ番組、日本テレビのノンフィクション。
今日は、「特攻隊」についてやっていた。
実は私はこの話題には弱い。知覧、という言葉を聞いただけで涙ぐんでしまうほど。
今日のこの番組、いつもよりずっとお涙頂戴的な作りだった。珍しい。
83歳になるとある女性が主人公。60年前、婚約者が特攻隊員になったことで、
一度も結ばれることがないまま彼は還らぬ人となる。
彼が特攻隊員として選抜されたことを知り、彼女は彼がいた三重県へおもむく。
だがときすでに遅く、彼は九州へ向かったという。
彼女は、彼が残した宮崎県都城という言葉だけを頼りに、汽車を乗り換え、
九州へ。ところが都城に着いたとき、彼の飛行機は旅だったあとだった。
しかし、実は彼が旅立った先は、知覧。
ここで天候待ちをしていたのだ。
すれ違いの連続、そして彼は彼女に遺書を残して片道燃料、
250キロの爆弾を載せた飛行機を操縦していく。

彼女は彼の遺書に「過去を振り向くな」とあったため、
悩み抜いた末、10年後に結婚、18年連れ添って夫を看取ったという。
このあたりの事情が、ちょっと不鮮明。
夫となった人は、彼女にそういう思い人がいることを知っていたのか。
結婚生活はどうだったのか。

そのあたりを克明にしすぎると、「60年の恋」というテーマがぼけるせいだろう、
彼女はひたすら、特攻隊員として命を散らした彼を思い続けている、ということに
なっている。そのあたりはしかたがないのか。
彼女は今も、彼が家に来たときの煙草の吸い殻を大事にもっている。
もちろん、彼への思いが月並みなものではなかったことはわかる。

何より泣けたのは、その特攻隊員となった彼の「遺書」だ。
感情はひたすら抑えている。
だが、最後に彼女の名を呼び、「会いたい、話したい、無性に」と書いてある。
23歳の若者が、これから数時間後に命を落とすことがわかっていながら
愛しい女性に書いた手紙。
それだけで、私はひたすら号泣。

先の戦争で、私は、いるべきはずの「おじ」を失っている。
粋で洒脱、浅草界隈ではちょっと有名な遊び人だった、という。
あまりに遊び人だったので、招集されないうちに
親が志願兵として軍隊に入れてしまった。
そして東南アジアで死亡。
親の嘆くまいことか・・・。
あれほど戦禍が激しくなるとは思っていなかったのだろう。
誰も彼もが、先を見通せなかったはずだ。情報統制の中では。

特攻隊も人間魚雷も、今の常識からみると常軌を逸した行動だと思う。
だが、当時はそれが正しい道だと信じられていたのだ。
そのことが非常に重い。

講習会、もしくはトーク番組

リンクも貼っている友人、「Shinobu」さんが
始めようとしている、「大人の学校」というのがある。
その講習会、というのか、
トーク番組(いずれネットラジオで配信される予定)というのか、
そのゲストに招かれて、長い時間、おしゃべりしてきた。
いやー、とっても楽しかった。
聴衆は男女半々で合計20人。
こじんまりとした会だったから、来ている人たちにも多少は話を聞けたし、
私も言いたい放題。編集が大変だろうなあ・・・。

テレビもラジオも何度か出たが、テレビはやっぱりつらい。
収録だと、1時間近く話したのに、たった1分くらいに編集されているし。
その点、生放送のラジオはとても楽しい。
でも、今日みたいな会がいちばんおもしろいかも。
もっと来ている人たちに話が聞けたらよかったのだけど・・・。
ちなみにお題は、「抱きたい男、抱かれたい男」。
男性たちが、性に対して臆病になっている昨今、
なんとかもっと色気のある大人たちよ、増えよ、というのが「Sinobu」さんの狙い。
私もそれには賛同するので、ついつい力の入ったしゃべりになってしまった。

セックスそのものをするかしないか、というのは二義的な問題。
男も女も、もっと色気をもとう、というのが趣旨だ。
イタリア男、とまではいかなくても、
もっと男性が女性の目を意識しておしゃれしたり、
あるいはもっと文化に接したりしてもいいのではないか。
ただの友だちでも知り合いでも、あるいは通りすがりであっても、
もっと互いに自分の性、相手の性を意識してもいいのではないか。
そして、特に男たちは、
自分たちの「感情」や「気持ち」をもっとストレートに言葉にしても
いいのではないか。
もはや沈黙は金、という時代ではないのだから。
言葉が伝える役割は小さくても、
やはり「話さなければ分かり合えない」ことは多いはずだから。

個々人が、大人の色気をもたない限り、
色っぽい社会、つまり成熟した社会にはなっていかない。

嫌な事件が多い・・・

子供が犠牲になるような、なんとも言えない嫌な事件が立て続けに起こっている。
子供を殺した犯人は、無条件に即刻死刑、でもいいとさえ思えてくる。
なんだかなあ、世の中全体が病んでいるんだろうか。
あまりに痛ましすぎる。
事件の結末が見えてしまったのに、
被害にあった子供の写真をこれでもか、と流すテレビもどうかなあ、と思う。
探している段階ならいざ知らず・・・。

庄司紗矢香のコンサート

庄司紗矢香のコンサートへ。
シューマンのヴァイオリン・ソナタ第一番、
ショスタコーヴィチのヴァイオリン・ソナタ
シュトラウスのヴァイオリン・ソナタ変ホ長調

シューマンの出だしで、その音の深みに驚かされる。
第二章で不覚にも落涙・・・。
ナマの音というのは、心に染みてくる。
圧巻はショスタコーヴィチ。この曲自体はそれほど好きではないが、
客席の明かりを落として舞台のみのスポットライト、
集中力を高めての、精神的にもぎりぎりのところにあるような演奏だった。
卓越した技術も去ることながら、情緒・感性ともにすばらしく磨かれた演奏。
そして、この人はおそらく、芸術性のみならず、
「聞かせること」「見せること」を知っているプロなのだ、
と感じさせるものがある。

朝青龍が14日目、優勝が決まったとき、泣いたことについて。
相手力士が地元だったせいもあり、ほとんどの応援が相手力士のものだったこと、
その中で、自分を応援してくれている人を見つけ、
勝った瞬間、その人と目が合って、うれしくてたまらなくなったこと、を
昨日、ニュース番組で話していた。
横綱の孤独・・・。
そういえば、朝青龍は「競馬馬になりたい」と言ったことがあるとか。
「勝っても負けても愛されるから」と。
トップに立つものはいつも孤独だ。
朝青龍、もうすでに2年くらいひとり横綱でがんばっている。
勝っても負けても、私は愛してるよ〜、と言いたくなる。

何かをしたから好きになる、とか何かをしたから嫌いになる、とか
若いときには、そういう恋愛もあったけど、
この年になると、すべての人間関係ひっくるめて、
なかなか人を嫌いになったりはしないものだ。
ま、私はもともとそうだけど。
置かれた状況も、相手の性格も性根も、すべてひっくるめて
受け入れたいなあ、と思う。
清濁併せ飲む、という言葉が嫌いじゃない。
何もかも受け入れて肥やしにしていく・・・なぜか庄司紗矢香のヴァイオリンの音は、
そんな音に聞こえた。

朝青龍の優勝

朝青龍の優勝、うれしかった〜。
昨日の土俵上の涙には驚いたが、それだけプレッシャーがかかっていたのだろう。
思わずもらい泣きをしてしまった私・・・。
しかし・・・モンゴル国歌くらい流してあげればいいのに。
いくら日本の国技とはいえ、彼はやはりモンゴルの人。
敬意を表して国歌くらい流してもいいのではないだろうか。
それができないなら、そもそも外国人を入れなければいいだけの話。
今後、外国人力士が増えてくることを考えれば、
優勝したら国歌を流したほうが、よほど国際親善に役立つのではないか。

見たり聞いたり

自分のフットワークが重くなってくると、急に不安に襲われる。
もっといろんな場所へ出かけなければ、もっといろいろ見聞しなければ、と
思ってしまう。これって職業病なのかもしれない。
もちろん、感じたり考えたりする時間も必要だけど、
街へ出ていく気持ちも大事。

神楽坂の菊之丞さんの落語会、
三島由紀夫の憂国忌、
そして松竹110周年祭の古い映画『乾いた花』、
今週はよく出かけた。

憂国忌は、やはり35年という時間の長さを思い知らされた。
このところ、関連本も含めて、ずっと三島の本を読んでいるけれど、
やはり彼の精神性をどこまで理解できているかわからない。
今日読んだ、『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書)にはちょっと驚き。
学生時代からその評を信頼していた劇作家・評論家の堂本正樹氏が
三島との関係を告白しているからだ。
これはなかなかリアルで、なおかつ冷静、客観的な筆致で、
それゆえに迫力がある。
どんな三島の素顔を見せられようと、やはりその文学的魅力は失われない。
もちろん、人としても・・・。
三島のあらゆる美学は、その弱さをも内包しているが。

映画『乾いた花』は、1964年、篠田正浩監督作品。
音楽が武満徹、というのにまたびっくり。
若き日の池辺良、加賀まりこ主演。
若さゆえ、無軌道ゆえの空虚な生、にちょっと落ち込む。
そういえば若い日の私も、「しらけて」「空虚」で「退屈」な日々を
送っていたっけ・・・。
若いことがつらくてたまらなかったなあ、と思い出したりした。
人間って勝手だ。

無題

人間がいちばんつらいのは、精神的に宙ぶらりんな状態に置かれたときだという。
恋愛でいえば、「私はあなたの何なの?」という状態だろうか。
でも、「関係性」に名前をつけて位置づけることに、何か意味があるのかなあ、と
最近、思うようになってきた。
「恋人だよ」と言われれば、それですべて納得なのか。
友だちだよ、と言われればそれでいいのか。
むしろ、位置づけられない関係、というのがあってもいいのかもしれない、と。
曖昧な、だけど、その人としか作れない関係。
それができたら、男女とか友だちとか恋人とか、
すべて越えた、個と個のつながりが完成するのかもしれない。
もしそこに信頼を置くことができたら、それはすごくいい関係なのかもしれない。

「かもしれない」でしか語れないのは、
そういう関係を、いまだ実際に見たことがないから。
だけど、規定してしまえばしまうほど、関係はありきたりのものに
落ちていく可能性を否定はできない。
枠の中で語れない関係を作っていけたら、
それはそれでとっても素敵なのではないか・・・。
なーんていうことを考えたりもする。
ある意味で、とても深くて強い愛情がないと、
そういう関係は構築できないと思うけれど。

元禄忠臣蔵

1941、42年に公開された映画『元禄忠臣蔵』を銀座の映画館で観る。
大好きな溝口健二監督、長回しで有名な監督だ。
モノクロながら画面の美しさが引き立つ。
映画の中に流れる時間が、今と違ってゆったりしている。
セリフもないままに、画像だけで内面を映し出す技術と感性に驚かされた。
これだから、映画、なんだ、と改めて思う。
今の映画は(芝居やオペラも含めて)、説明的な演出が多すぎる。
観ているほうの想像力を削ぐような演出には、たびたび腹が立つものだ。

しかしながら、疑問。
昭和16年というと、もはや戦争もかなり本格的になってきているはずなのに、
どうしてあんな映画が撮れたのだろう。
「大義のために死ぬ」というテーマがあるにせよ、
それほど戦意高揚させるほどの内容とは思えないのだけれど。
しかも、出ている役者のほとんどは前進座。
もはやかなりキナ臭い世情になっていた時代だと思うのだけど。

それにしても、古い映画はいい。
画像に人の思いがこもっている。
いや、今の映画だってこもっているものは多々あるのだろうけれど。

女、というもの

新潮45を読む。
中村うさぎさんが、デリヘルで働いた経緯を書いているのだが、
正直言って、同世代としては涙なくして読めない。
15歳年下の惚れたホストと同衾したものの、彼は不如意。
「女として見てもらえなかった」ことに、彼女はひどく傷つく。
まさに慟哭の手記、といってもいいくらいだ。
その結果、彼女は整形やダイエットにいそしみ、
そしてデリヘルへとつながっていったのだ。
男が金を払って、女への幻想を買う風俗、
そして女は女として扱われる、ある種の満足を得ることができる・・・。
気持ち、わかる・・・と涙ぐんでしまった。

女40代。どうがんばっても、自分が男を引きつけられる容姿ではなくなっている
ことに、実は自分がいちばんしっかり気づいている。
それなら、さっさと女を降りればいいのかもしれないが、
なかなかそうはいかない。まして、好きな男ができたりすれば。
そこで、「40代は女盛りよ」と開き直れるほど自信はない。
「容姿より内面よ」と言い切る自信もない。
年くって、多少、精神的には余裕も出て、友だちづきあいならできる。
だけど惚れた男に「女として見てもらえない」ことほど、
女が傷つくことはない。
実際に関係をもつかどうかは別としても、女は女として求められたい、
という欲求がある。
人として尊敬されたいか、女として求められたいかと言われれば、
多くの女が後者をとるのではないだろうか。
かといって、なかなかそういう感情はあからさまにはできないものだ。
がつがつしている感じが、ますます男の気持ちを遠ざける。
「花の命は短くて」ということだろうか。
なんともわびしく、そしてせつない。

少し気分が脱出

かの編集者の死が、意外なほどショックで、ようやくそこから
脱しつつあるところ。
今週、三島由紀夫原作の映画『春の雪』を観た。
原作から、恋愛部分を集約させて撮った作品。
役者に多少の不満はあるものの、内容的には「凝縮された恋愛」を
感じ取ることができた。

抱き合うことは、感情を発露させるものかもしれないとふと思う。
恋の狂おしい感情を、抱き合うことでぶつけるのではなく、
減少させていくこともあり得るのだろうか?
狂おしい感情を発露させずにためていくと、いったいその感情はどこへ行くのだろう。

行き着く先がわかっていながら、どこまでもとことん行ってしまう関係は
せつないのか幸せなのか。
そもそも、人を恋う気持ちっていったい何なのだろう・・・。

破滅に向かう恋は、贅沢なものなのだと言った人がいる。
恋なんて、したいと思ったことは一度もない。
「春の海」のふたりだって、破滅したくてしていったわけではないだろう。
あの結末が「破滅」なのかどうかもわからない。

年をとると価値観が定まってくると世間では言われているが、
私は不惑を過ぎて惑ってばかり。
たぶん、価値観が定まるのが怖いのだと思う。
自分が今まで知らなかった感情を知りたくてたまらないし、
まったく違う価値観をもった人に取り込まれていくのもおもしろいと思う。
固まることへの恐怖感があるのかもしれない。
「自分」をもたずに、するするにょろにょろと人の間に入っていく。
それはともすると、かなりつらいことなのだが、
そうしてみないと自分を確認できないような状態になっている。
そんな気がする。
たまには水のように生きてみるのもいいかもしれない。

いなくなる

例の編集者の通夜に行ってきた。
遺影を見て、亡骸の顔を見て、本当に「いなくなってしまったんだ」と思った。
一気にいろいろなことを思い出す。
いちばん悔しいのは、本人かもしれない。

この世にいながら会えない人もいれば、
この世からいなくなってしまう人もいる。
この世にいれば、いつかは会えるかもしれないけど、
いなくなったら会えなくなる。
その人の生き方に敬意を表し、
その人の分まで一生懸命生きるしかない、とある人が言った。
確かに。
いつか、その人をうならせるようないいものが書けたらいいんだけど。

またも急死のニュースが

駆け出しライターのころ、叱咤も含めていろいろ教えてくれ、
その後も仕事の節目ごとに、非常に世話になった編集者が亡くなった。
最近ではめったに会うことはなかったが、それでもメールや電話で
連絡する機会はあった。
最後にいつも、「今度、ご飯でも」と言っていて、ついに会えなかった。
無理言っても、会っておけばよかった。
もっと話しておきたかった。
こういう後悔ってしたくない。
その人が、もうこの世にいないなんて、信じられない。

朝知ったニュースだったのだが、一日、気づくとため息をついていた。
まだ53歳だったのに。
駆け出しライターのころは、けっこう厳しく鍛えられた。
まだメールなんてもちろん、ファクスも個人ではもてない時代だったから、
しょっちゅう編集部で徹夜してた。
私はまだ若かったけど、それでも人生語り合ったこともあったっけ。
毎月一緒に仕事をしていたから、人間関係は密だった。
つらいなあ、こういうの。心の底にずしんとくる。

合掌

歌手の本田美奈子さんが亡くなった。
デビューして、まだそんなにたっていないころの彼女にインタビューしたことがある。
所属事務所の社長が病気で「心配で寝られない」と話していたのが印象に残っている。
本人も忙しい時期だったのに、周りの人がいかに自分によくしてくれるか、
周りのおかげで自分がある、ということを一生懸命話していて、
若いのに謙虚でいい子だなあ、ととても感心したのを覚えている。

その後、ちょっと見なくなったな、と思った時期もあったけど、
ヴォイストレーニングして、素晴らしい歌唱力をもって
歌手として、ミュージカル女優としての地位を築いているのを見て、
とてもうれしく思っていた。
努力が報われていくのを見るのは、他人事ながらうれしいものだから。
白血病も、きっと克服して、活躍してくれると思っていた。
若すぎる、38歳。

人の命なんて、いつどこでどうなるかわからない。
誰もが、明日死ぬ危険性をもちながら生きている。

ゆがみを正す

朝8時くらいまで仕事をし、
夕方からジムへ。1時間ほどみっちりトレーニング、
そしてヨガのクラスに出てみた。
動き自体は激しくないけど、ヨガをやってみて、
いかに身体が歪んでいるか、よくわかった。
左側が腰痛持ちなので、どうしてもかばっているところがあるようだ。

身体が歪むと、心も歪むのかなあ・・・。
せっせとゆがみを正さなければ。

動く

まず行動。身体を動かすことによって精神が動く。
三島由紀夫のその言葉に喚起されて、このところジム通いをしている。
それほど熱心に通っているわけじゃないから、まだ精神が動くところまでは
いってない・・・ようだ。
ジムに来る人を観察しているのが、密かな楽しみ。
世の中、いろんな人がいるもんだなあ、と改めて思う。

なんだか生きづらい世の中・・・。
昔からずっとそう思いながら生きている。
社会からはみ出したところで生きていながら、
社会と接点をもとうと腐心している。
その折り合いがうまくいかない。

TAKE IT EASY!

同世代同業者とランチ、そしてケーキ。
ランチ1,5人前食べてしまった。
私はどんぶり飯まで平らげ、デザートも食べたのに、
河岸を変えてケーキを・・・。いくらなんでも食べ過ぎた〜。
がばがば食べているくせに、話はけっこう深刻だった。
お互いの仕事上の境遇を嘆きあい、慰め合う・・・なんちゃって。
彼女は才能あふれる人だから、引きは多いのだけど。
しょせん、お座敷がかからないと出番のない稼業なのだな、としんみりする。

嘆きあっていてもしかたがないので、恋愛話に花を咲かせた、つもりだが、
結局はお互いライター、具体的な身の上話ではなく、抽象的な話にいってしまう。
女同士でもベタな話にならないところがいい。
「どうしてあの人じゃなくてこの人なのか」
今、この話題は、なぜか盛り上がる。
みんな同じことを思っているのだなあ。
「好きって何?」
「何をもってして好きって言えるの?」
「愛って何?」
こういう答の出ない話ができる友だちは貴重だ。

この年になって、こういう境遇にいると、
男女の行き着く先が結婚だなんて思っちゃいない。
それより、いつも私たちの間で話題になるのは、
どうやったら、好きな人といい関係を作れるか、いい関係でいられるか、
という、この一点に尽きる。
だけど好きだからこそ、アホなこともしてしまうし、
とっちらかってしまったりもする。
相手に言いたいけど言えないことだってたくさんある。
まったく男って・・・と言いながらも、
結局、女は好きな男を憎めない。
それが結論ってところが、情けないのかかわいいのか・・・。

いやしかし、こんな半径5メートル以内の話をしていると、
これじゃいけない、という気になってくるのが不思議。
天下国家を憂えなくては。
そういえば、今日出た「アエラ」に三島の血判状の写しが掲載されていた。
なんともいえない気分になった。

朝焼け

日本シリーズ、ロッテが二連勝。
しかし、パリーグにプレイオフがあって、セリーグにないというのは
どこか不平等のような気がしてならない。
スポーツって、おもしろいもので、休養十分なほうが勝つとは限らない。
むしろ、ずっと試合を続けてきたほうが、波を引き寄せることができたりする。

最近、朝焼けがきれい。
五時を回ると、そらが少しずつ白っぽくなってきて、
そのうち東の空が色づいてくる。
朝焼けがきれいな日は寒いそうだが。
季節は刻々と巡っていく。

あーだこーだとしているうちに、朝になってしまった。
しばらく朝焼けでも楽しむことにしよう・・・。

ぼうっとした一日

思考停止、ぼうっと過ごした一日だった。
たまにはこんな日もあってもいい。
読む、書く、見る、聞く、体験する、感じる、考える。
これらのバランスがうまくとれないと、ふと不安がよぎってしまう。
いちばん大事なのは、体験することと感じること、かな。
感じて体験する場合と、体験して感じる場合があるけれど、
いずれにしても、フットワークが重くなること、感性が鈍ることに
関しては、ときに恐怖感を覚えるほど不安を感じる。
熟していくことと、新鮮な感性を保つこととは、やはり反比例するのだろう。
ライターの命は、案外、短い。
最近、それを痛切に感じさせられることが多々、あった。
四十代の同業者のみなさん、がんばって生き抜こうね!

他人事ながら、「ああ、よかったなあ」と思えることがあると、
ほんの少し、気持ちがあったかくなる。
その人の努力がわかっていればなおのこと。
喜びも悲しみも、分かち合ってくれる人はきっといる。
以前、つらいことがあったとき、「私たち友人は、いつもそばにいますよ」と
言ってくれた人がいた。
何も言わず、好物を送ってくれる人もいた。
立ち入ってこなくても、「心配してる」とメールや電話をくれる人もいた。
そういう言葉や態度に、私はいちいち号泣した。
自分で解決するしかないとわかっていても、そう言ってもらえると
もう一度、何とか立ち上がっていかなければ、という気持ちになれる。
せちがらくて物騒で、何も信じられないような世の中だけど、
そういう個人的なつながりだけは信じていたい。

ささやかでも的はずれでもいいんじゃないか、とときどき思う。
その人を思う気持ちがあったら、そっと伝えておいたほうがいい。
もちろん、気遣ったら何もしないほうがいい、ということもあるけど、
大丈夫? 心配してるよ、よかったね、って
ほんの一言、気持ちは伝えておきたいな、と思う。
やりすぎると押しつけだけど。

ようやく雨も上がり・・・

ようやく雨が上がった。
とはいえ、私は夕方からの仕事だったので、外に出たときはもう暗かったけど。
また地震。東京は震度4,茨城が震度5弱。
近々どでかいのが来るんじゃないか、とみんな言っている。
まあ、人生、いつ終わってもいいやっていう気分もちょっとする。
こういうこと言ってるヤツに限って、
土壇場になると自分だけ助かろうとするに決まっているんだけど。

恋人と別れたばかりの人、好きな人に振り向いてもらえない人、
ここ数日、会った人、あるいはメールをくれた人たち、
秋なのに、寂しいことばっかり言ってるなあ・・・。
別れたのに忘れられなくて苦しんでいたり、
出会いと別れを繰り返していくことにむなしさを感じていたり。
「なんで恋愛なんかするんだろう」と、ある人が言った。
理屈じゃないからつらいんだよね、好きだ、というのは。
恋愛なんてしたくてするものじゃない。
気づいたら落ちてる、はまってるという類のものだもの。

「どうして、この人じゃダメで、あの人じゃなくちゃいけないんだろ」という
言葉もちらほら聞こえる。
ほんと、不思議だなあ、と思う。
もろもろの条件(って変な言い方だけど)を考えても、
この人のほうがあの人よりずっといいのに、人間の心は、条件なんかでは動かない。
拒絶されても、好きな気持ちは消えない。
だが、もちろん人の気持ちが変わっていくことも止められない。
誰にも人の心を縛る権利なんてないのだから。

超特急で盛り上がって、大きな花火打ち上げて終わっちゃう恋愛もあれば、
深く、静かに、じっくりゆっくり、あっためていけるような恋愛もあるんだろう。
こればかりは、おそらく組み合わせの問題。
どちらかしかないのか、シフトしていけるものなのか、私にはわからない。


忘れられないなら忘れなければいい。
ずっと好きでいればいい。たとえ、どうにもならなくても。
無理やり気持ちを殺そうとすると、もっとつらくなる。
そんなことぐらいしか言えない自分が情けないけど。
みんな、がんばろうね、と思わずエールを送りたくなる秋の夜ふけ。

背筋を伸ばそう

とある人の貴重な助言があり、夜中にふと、
「あれ、私ってもともと、こんな人間だっけ」と自分で自分を不審に思った。
言葉遊びもいいけれど、その裏には被害妄想、堂々巡り、マイナス思考、言い訳三昧。
私がいちばん嫌うことばかりをずっとしてきたような気がする。
どこからドツボにはまったのかわからないし、検証する気もないけれど、
いいことだけ記憶にとどめて、本来の私に戻れそうな気がしてきた。
いや、別に本来の自分がいいと思っているわけではない。
人は日々刻々と変わっていくものだし(自らも、そして他者からの影響も含めて)、
変わることはまったく恐れてはいないのだが、
背筋を伸ばして歩いていこう、ということだ。
被害妄想に陥っている女はうつむき加減で前のめり。怖すぎる。

でもひとつ発見した。
被害妄想に陥っているときって、他人のいいところも見えなくなっている。
あらゆるものが曇って見える。
自分の殻の中で小さく縮こまって、他者からの救いを待っているそぶりを
していて、とっても卑屈な感じ。

自分で自分を抱きしめていないと、どうなってしまうかわからないような不安と孤独。
それは、生きていく上では、いつだって直面していること。
それは誰にも埋められない。誰もが抱えている、ある種の「生の証」かもしれない。

自分の心の穴を誰かに埋めてほしい、というような人間関係は破綻する。
あらゆる人間関係は(家族は除く、かもしれないが)付加の関係でいたい。
補填の関係は、お互いの理性も感情も損なう。
そしていくら補填されても、無駄に被害妄想で消費するだけ。
個人と個人の関係においては、やはり付加がないと楽しくない。
男女関係も友だち関係も、基本はやっぱり楽しいかどうか、なんだろう。
もちろん、どちらかに何かがあったりもするから、
ずっと楽しいだけですむ関係は嘘くさい。表面的すぎる。
何かがあったら、そのときは、全力で支えてあげればいい。相手が望めば、だけど。
相手が望まないなら、そうっとしておけばいい。
ただ、基本的に快不快のどちらに人が惹かれるか、といえば「快」に決まっている。
確か20年も前に、この法則を考えついたのに。
なにやってんだろ、あたし・・・と自嘲する。

よく、「人」という字は支え合っている、という。
だが、これ、よく見ると、どっちかがバランス失ったら共倒れ。
HUMANの頭文字でもあるH。どっちもひとりで立ちながら、
ふと手を伸ばし合っている感じ。このほうがいいな、と思う。

昨晩も今晩も、BSでスカラ座のオペラをやっている。
昨日が「トスカ」、今日は「イル・トロヴァトーレ」。
トスカはグレギーナ、リチトラ、ヌッチというメンツ。
グレギーナとリチトラという超重量級のカップルはちょっと怖かった・・・。
抱き合っても、お互いに背中に手が届かない、という感じで。
グレギーナのトスカは、いいなと思うところとうーんと考えてしまうところが
混在していた。
昨日のトスカは、やたらと雄弁な音楽が印象的だった。
トロヴァトーレのほうは、ヌッチ、リチトラという昨日と同じ歌手に、
フリットリがレオノーラ。表現力といい、高音の美しさといい、
これは2000年の舞台だが、
今も彼女はイタリアオペラ界の最高峰ではないだろうか。