男も女も、恋するとせつない。(掲示板の男性の投稿も含めて)
個人的には、相手の状況もすべてひっくるめて受け入れることが「愛」だ
というのが、私の認識なのだけれど、
もちろん、現状を打破していくのも「愛」だとも思う。
形はいろいろだが、ふたりの気持ちがどこまで一致して、
ふたりプラスαの力が出せるかが問題なのかもしれない。
昔見た、「蒲田行進曲」をふいに思い出した。
映画のほうだ。風間杜夫、平田満、松坂慶子が出ていた映画。
銀ちゃん(風間杜夫)のオンナだった小春(松坂慶子)を、
銀ちゃんはヤス(平田満)に押しつけてしまう。
ヤスは小春を本気で好きになるが、小春の気持ちはまだ銀ちゃんにある。
ある日、新撰組の映画を撮ることが決まり、階段落ちをするヤスは
いらだちも手伝って、小春に不当に当たり散らしたあと、
泣きながら、自分の胸を指さして言うのだ。
「オマエのことが好きになればなるほどね、せつないんだよね、ここが」と。
好きになればなるほど、苦しい、せつない・・・。
だからといって、その人と一緒になれば、すべてが解決されて、
一生、バラ色の生活が送れるのかというと、そうとも言い切れない。
そこがまたせつない。
人間の気持ちは変わる。変わらないかもしれないけど、変わるかもしれない。
つまり、先のことは誰にもわからない・・・。
今のこの瞬間は、風のように過去になっていく。
しかし、決断しなければいけないときはある。
迷っているだけでは現状は打破できない。
打破しなくていい現状もあるだろうけれど。
そうやって考えていくと、自分にとって、いちばんいい状態というものさえ
見えなくなっていく。
生きていくこと、好きになること。それ自体が大変なことだとつくづく思う。
掲示板でもちらりと話題になっていた、「束縛」。
確か、サガンの小説に「愛は束縛」という邦題の本があったけど・・・。
お互いに束縛しまくって、ふたりきりでこもって暮らす、みたいな世界にも
憧れはなくはないけど、現代社会ではとても無理。
女を束縛する男は、年代問わず増えているような気がする。
男性たちに自信がなくなっていることの表れなのだろうか。
つい最近も、友人が、「好きなら、お互いの仕事の時間以外は
ずっと一緒にいるべきだ」と彼に言われた、と話してくれた。
うーん、大人なら、それぞれのつきあいもあるだろうし、
ひとりの時間も必要。
だが、「友だちと食事にも行くなと言われた」とか、
「女友達とも自由に会えない」などと嘆く友人は多い。
それって、束縛されてる=のろけ、ということなのだろうか、と
最初は思ったけど、実際はのろけではなく、ある種の嘆きに近い。
もちろん、ふたりの時間は大切だ。
だが、バランスの問題だろう。
お互いに自分の世界ばかり大事にしていて会う時間がとれないのでは
意味がない。
だが、自分の世界をすべて犠牲にして、常に一緒にいるのも
なんだか違うような気がする。
そこに信頼関係があれば、別々の時間を過ごしていたとしても、
疑ったり嫉妬したりしないですむはずだ。
だからといって、100パーセント信頼しきってしまうのも
男女関係としては味気ない。
自分が好きな人なのだから、他の誰かも好きになるかもしれない、という
危機感は常にもっていたいけど。
恋する気持ち、好きという気持ちと、不安や束縛、嫉妬は切り離せない。
だからといって、人は相手に何かを強要することはできない。
そこがジレンマだし、あとから考えれば「まさに恋だったんだなあ」と
思うゆえんなのだけれど。
今場所、朝青龍がいきなり初日で負けたので心配していたが、
それ以来、ずっと勝っていてほっとしている。
このところCMなどでかわいい笑顔を振りまいているようだが、
私としてはもうちょっと悪役に徹してほしいところ。
勝ったあとでのガン飛ばしは相変わらずなので、うれしい限りだけど。
横綱は憎まれるくらい強くあってほしいものだ。
この時期、いつもなら野球が気になるところだが
どうも今年は・・・。
昔は贔屓のチームも選手もいたけれど、今はとりたててどこ、というのはない。
それでも毎年、なんとなく気になるはず。
プロ野球改革元年のはずが、いまひとつ盛り上がっていないのではないか。
仲良しの年下の女友達に会ったら、好きな人とのことで悩んでいた。
彼女は好きになったから、超速球ストレートでがんがん攻めたのだが、
彼はそれに対して疲れてしまったようで・・・。
今はひたすら待つ、と決めた彼女。
彼のことがわからないからなんとも言えないし、
彼女の決断を支持するしかないのだけど。
ひたすら待つってのもつらいもんだ。
ひたすら待っていることが、相手に伝わっていないかもしれないし。
「恋愛は最初が大事」みたいな観念があって、
つい、力関係を決めようと焦ってしまうことがあるのかも。
超速球、しかも直球ストレートを受け止められない男性も、
今どきは多いのだろうし。
こうしたらこうなる、というマニュアルがないのが恋愛。
出過ぎたら引く、引きすぎたら出てみる、ということを繰り返しながら
ふたりのちょうどいい距離感を作り出していくしかないのかなあ、と思う。
むずかしい・・・。
自分に置き換えてみても、恋愛パターンをもっているわけじゃないし、
相手によって自分もかなり変化するわけだし、
思いもかけないような自分を発見してしまったりもするし、
「好きになる」ってことは、一筋縄ではいかないものだから。
ただ、ある意味で、自我が崩壊するとか、これまでの自分の何かが崩れて
再生していく、というのが恋だという気もする。
そこまで関われたら本望というか。
自分を抑えてひたすら待っている彼女の心情を思うと、
彼女のこの恋がうまくいくことをひたすら祈りたい。
今日あたりはかなり涼しくて、秋になったんだなあ、という感じがする。
秋も最初のうちはいいんだけど、晩秋となると、ちょっともの悲しくなる。
妙に人恋しくなったりするからやっかいだ。
とはいえ、夏の暑さは苦手なので、涼しくなったのにはほっとしているけれど。
ニュースでも話題になっている、不倫相手の妻殺害依頼事件。
未遂で終わってよかった。
その昔、某大手企業の優秀なOLが、不倫相手の家に放火して
子供が逃げ遅れた、という事件もあった。
こういう事件を聞くたびに、心中複雑になる。
すべてが見えなくなってしまうほど好きになってしまったのかもしれないが、
やはり一歩、引いてほしかった、と思う。
不倫という形であっても、恋愛は恋愛だと思うし、
そういう視点で本を書いてもいるのだが、私は決して不倫を肯定はしていない。
どんどんやれ、なんて思ってないし、やめられるものならやめたほうがいい、とも
言っている。
ただ、やはり世の中にはいけないとわかっていても、好きになってしまうことが
あるし、お互いの気持ちで「始まって」しまうのはしかたがない面もある。
だが、よほど強い意志がなければ、そういう関係は続けられない。
好きだから何をしてもいい、というわけにはいかないのだ。
独身同士なら何をしてもいいけれど、不倫の場合、
何の罪もない第三者がいるのだから。
第三者を傷つけない、というのは暗黙のルールだろう。
若い女性は、「好きになった人に、たまたま家庭があっただけ」
という言い方をする。
だが、結婚生活が彼にもたらしてきた影響は、厳然として存在する。
彼が今、素敵に見えるのは「家庭があるから」という面があるのだ、と
いうことを、現実的に考えたほうがいいのではないか。
そこまで冷静に考えてもなお、どうしても彼が好きだというなら、
「もう止めようがない」と思う。
自分をひたすら律しながら、つらくても進んでいくしかないのだから。
ただ、やめようと思ったらいつでもやめていいんだよ、と私は若い女性たちに言う。
自分を追いつめたり彼を追いつめたりするようになったら、
さっさとやめたほうがいい。
今回の事件、「相手の奥さんに子供が生まれて、裏切られたと思った」と
彼女は言っている。
それを「馬鹿だね」と言ってしまうのは簡単だけど、
そう断罪するのは、やはりかわいそうな気がしてならない。
彼女の場合、殺人依頼をした人が、いいかげんなヤツだったから
よかったようなものの、彼女自身は本気で依頼していたのだから。
こういう話はなんともいえず、せつない。
そこまで思いつめないようにするために、誰か何とかできなかったのか、と
いう気がしてならない・・・。
雑誌に携わる者なら誰でも知っている「キンゼイ・リポート」。
キンゼイ博士の生涯を描いた「愛のためのキンゼイ・リポート」という
映画を観てきた。
50年前のアメリカでは、やはり性に関しては非常に抑圧が強かったようだ。
彼は聞き取り調査をして、性をオープンなものにしようとするが、
持ち上げたものは、たたき落とされる。キンゼイ博士もまたしかり。
そして、結果的に人々の意識を再度、抑圧する方向になってしまった、と
彼は嘆く。
アメリカにはその後、性革命が起こるわけだから、
やはりキンゼイ博士の取り組みは無駄ではなかったわけだ。
日本は、その余波がやってきただけで、本当の意味での性革命は起こっていない。
自ら戦って手にした自由をもってはいない。
だから個人レベルでの差が激しいのかもしれないが。
映画の中で印象深かったこと。
セックスは愛情と切り離して考えるしかない、と博士が妻に言うところ。
彼が男性と寝てしまったことを妻に告白するシーンだ。
「他の人とセックスしたからって、僕らの愛情と絆は変わらない」と。
妻である君がもし他の人としても、僕が傷つかないとしたら、と博士は言う。
「私が傷つくわ」と妻は言う。
ところが、博士が寝たバイセクシャルの男と、妻は寝てしまう。
このあたり、モノガミーとポリガミーの対決、葛藤、そして快楽の勝利、という
図式が見えて、なんともおもしろかった。
性は心と切り離すことはできない。
だが、心の入ったプレイとして楽しむことはできる。
それは善悪で片づけられる問題ではない。
世の中には、性的に本当にいろいろな趣味の人間がいるのだから。
下の日記、文楽の話。「住大夫も語りも」ではなく、「住大夫の語りも」だ。
指が滑ると誤字脱字が多くなる。興奮している証拠?
NHK教育でやっている「こだわり人物伝」。
今は映画監督の山本晋也さんが、古今亭志ん生をやっている。
今日は2回目。志ん生の数少ない録画も流していた。
なんともいえない愛嬌とリアリズム。
落語って、リアリズムだったんだ、と改めて感心した。
カントク曰く、「人間の業を見つめて認めたのが、志ん生の芸」だ、と。
確かに落語に出てくる人間って、ろくなもんじゃない。
だけど憎めないのは、聞いているほうだって、みんな自分の「ろくでもなさ」に
気づいているからではないのか。
本人たちは必死なんだけど、周りから見たらどこか滑稽だったり、
かっこつけてるヤツへの揶揄だったり・・・。
それでも糾弾していることにならないのは、滑稽だと笑っている人や
揶揄している人たちが、自分の中にもそういった「エゴ」や「ずるいところ」が
あるとわかっているからだ。
「え〜、人間とぉいうものは〜〜」で始まる志ん生の落語が
なんともいえず好きだとカントクは言っていたが、
まあ、どんなに生きたって「人間というものは」わからないものだ。
もちろん、それだから生きていけるし、人生はおもしろいのかもしれない。
ろくでもない、情けない部分なんてのは私自身ももちろんもっている。
弱いし、ずるいし、さらにそのずるさを正当化しようとしたりもする。
たまに我ながら笑うしかないくらい、しょうもないなあ、と思うこともある。
ただ、自分を過小評価も過大評価もしたくない。
自分が自分を見る目はどうしたって偏ってしまう。
人をたくさん見ることで、人とちゃんと話をすることで、
自分のことも見えてくる、といつも思う。
自分を見るより人を見るほうがおもしろいし・・・。
落語を聴くのも、ひとつの「人間観察」なのかもしれない。
文楽を見た。
時間的な問題で、「菅原伝授手習鑑」は見られず、
後半の「女殺油地獄」のみ鑑賞。
いやー、すごかった。この演目は歌舞伎でもたまに上演されるが、
人形の迫力にはかなわない。
油屋での殺しの場、手当たり次第にものを投げながら逃げるお吉、
白刃を手に追う与兵衛。
油に滑り、外からの風で灯りが消え、暗闇であたかも殺す側と殺される側の
息づかいが聞こえてきそうな迫力だった。
住大夫も語りもすばらしい。
しかし、油の入った桶を投げたりするところ、
人形は3人で遣っているから、非常にタイミングがむずかしいと思うのだが、
そのあたりの人形遣いの人たちのチームワークも非常に見事。
どこかでリズムが狂ったら一巻の終わりだもの。
曽根崎心中にしろ、冥途の飛脚にしろ、近松ものの多くは
やはり人形がいい。
今日は総選挙。自民党圧勝、と言われていたが、まさかここまでとは。
官との癒着を断ち切りたい、その象徴が郵政民営化だと小泉さんは言っていたが、
それだけが論点になってしまったようで、それでいいのか、と思う。
社会保険庁のことはどうなったのか、議員年金はどうなったのか、
どれだけの無駄が税金から使われているのか・・・。
そういうことがすべて雲散霧消。
それにしてもTBSに出ていた久米宏さん。
久々に気持ちのいい、あの口調が聞けたような気がする。
好き嫌いはともかくとして、
やはりあの切れ味は気持ちがいい。
特におもしろかったのは、自民党幹事長が、
やはり郵政民営化に反対した議員は復党させないと
言い、野田聖子さんに話をふったとき。
野田さんは当たり障りのないことを言ったのに、久米さんは、
「今の話は、小泉さんが総裁じゃなくなったら復党できる、という意味ですが」と
断言して再度、幹事長に話をふったところは見どころだった。
見ている者をどきっとさせる話術と態度、それは独断と偏見だったりもするのだが、
やはりこれだけ癖のあるキャスターのほうがおもしろい。
もちろん、それに感化されてはいけないけれど、
そういう意見をたたき台にして、自分の意見を構築する方法もあるはずだ。
ときどき、自分の意見を言っているようで、実はテレビの受け売り、みたいな
人がいる。実は最近、とても多いような気がするのだが・・・。
自分で考える力は自分でつけなければ、どうにもならない。
この国の学校教育は、そういうことはまったくやらないのだから。
大人になってからでも遅くない、自分で考えること、
自分の好き嫌いをはっきり決めること。
これができれば、生き方はかなり変わってくるのではないだろうか。
今日は木挽町へ芝居見物。
これはつまり、東銀座の歌舞伎座で歌舞伎鑑賞、という意味なのだが、
私にとっては、芝居見物、というほうがしっくりくる。
本来、歌舞伎はそういうもののはず。
歌舞伎は大学での専門だったので(とはいえ、まったく勉強してない)
すでに四半世紀にわたって観ている。(毎月欠かさず、ではない)
だが、今日の忠臣蔵外伝『忠臣連理の鉢植』は初見。
なんせ東京でやるのは、33年ぶり。
話自体はいい話だ。
赤穂浪士である神崎与五郎(歌舞伎では千崎弥五郎)に手柄を
立てさせようとして、彼に惚れたおたかという女性が、
吉良(歌舞伎では高師直)の愛妾になり、屋敷の絵図面を盗み出す。
それを弥五郎に渡したところで、駕籠の中で自害する。
駕籠の内から血が飛び、周りは誰も気づかないが、弥五郎だけがそれに気づく。
女の自己犠牲、これぞ無償の愛、という典型的な話。
もちろん、現代から見れば、そうまでしなくても、という話だが、
こういう話は大好き。
惚れた男のためにそこまでできるなんて、幸せな話だから。
打って変わって、今はオペラ『カルメン』をテレビで観ている。
ホセはミカエラという誠実な恋人がいながら、
カルメンという自由を愛するジプシーに恋して身を持ち崩す。
最後は、他の男に心移したカルメンを殺してしまうのだが、
しかし、世の中の「芸術」と呼ばれるものは、ほとんどが
惚れたはれたの話だなあ、とつくづく思う。
それにしても、アラーニャは、やっぱり当代一のホセ歌手だ。
この人のホセはナマでも聴いているが、
殺されたってカルメンと一緒にいてやる、という愛憎が
歌によく出ている。ぞくぞくするような迫力だ。
『風の盆恋歌』を読了。
何度読んでも、新たな発見があるし、自分の置かれた状況によっても
読み方が変わってくるものだと痛感する。それが小説のいいところだ。
この小説には、どきっとするシーンが多々出てくる。
それを披露してしまう気にはなれないのだが、
たとえば、男が突然、女に向かって、「・・・あのな、・・・死ねるか、俺と」
というシーン。この「・・・」の字面が素晴らしくて、
言いよどむ男の気持ちが、すべてのこの・・・に表れていて泣けてくる。
男が女にそんな言葉をかけてしまうとき、かけたくなるときは、
いったい、どんなときなのか。
そのままの会話の流れで、今度は女が尋ねる。
「あのね・・・幸せって、いいことなの? 人間にとって、生きたって実感と、
どっちが大事なの?」
と。
私は、若いとき、この言葉に敏感に反応した。
自分は幸せよりも、生きたという実感を得られる人生を歩みたい、と
強烈に思った。
その思いは今も変わらないのだが・・・。
今日は打ち合わせで六本木の和食へ。
とってもおいしい店で大満足。
編集者たちと雑談で盛り上がるのは、とっても楽しい。
その中から、新たな何かが生まれてくる。
どんなにツールが発達しても、人と人は顔を見ながら話さないと
わからないことが多すぎる。
私は、基本的にぶつ切り睡眠で日々を送っている。
毎日何時間寝ないとダメ、ということもないので、
朝方から数時間寝て、夕方また1時間くらい仮眠をとるとか、
最悪は電車の中で寝るとか、それでもなんとかもってしまう。
周りは朝型が増えてきて、そのほうが健康的だよなあ、と思いつつ、
変えられないでいる。
それでも今日は、1時間程度のぶつ切り睡眠を繰り返していたら、
なんとなく体中が痛い。
やはり、3時間と2時間、とか
4時間と1時間とか、少しはまとめてとったほうがよさそうだ。
9月になると、高橋治さんの名著『風の盆恋歌』が読みたくなる。
前にも日記に書いたように、この小説はいわゆる「不倫」を描いているのだが、
何度読んでも、心にしみる。
というわけで、何度目か忘れたが手に取った。
年に一度、おこなわれる越中おわらの風の盆。
富山県八尾を舞台にした、男と女の年に一度の逢瀬。
電車の中で読み始めたら、みるみる涙があふれそうになって
困った困った。
逡巡、葛藤、それにもまして相手への思いの強さなどが、
美しい文章からにじんでくる。
まだ途中なのだが、読み進めてしまうのが惜しいような本だ。
ヨーロッパで人気沸騰中のテノール歌手、
ロランド・ヴィラゾンの初来日コンサートへ。
今年の春、ウィーンで『愛の妙薬』を聴いてびっくりしたのだが、
これほど早く来日するとは。
まだ33歳。たった6年で、世界を股にかけて多忙を極める歌手となった。
もちろんコンサートは素晴らしかった。まさに「旬」という感じ。
だが、同時に、ここが岐路なんだろうなあ、という感想ももった。
ここから一流と言われる歌手になるのか、使い捨てられてしまうのか。
本人がきちんと自分のキャパを見極め、役を見極めていかないと
オファーの嵐でつぶされてしまうのではないか。
まだ弱声の使い方など、研究の余地もあると思うし、
今が大事な時期、という気がする。
しかし、人の心に直接、突き刺さってくるような歌い方ではある。
そこがいちばんの魅力。
特に大好きな『マノン』からのマノンとデ・グリューの二重唱。
修道院に入ったデ・グリューを、マノンが誘惑しに来るシーンには
息をつめてしまうほどの迫力があった。
愛する女の誘惑に耐えきれず、修道士としての道を自ら捨てる男。
彼女と一緒にいたら破滅してしまうとわかっていながら、
その道を選んでしまう・・・。
破滅もまた愛か。
愛しているから突き放すのか、愛しているならどこまでも突き進むのか。
むずかしいところではある。
かつては、「好きだけど別れる」は欺瞞だと思っていた。
だが、本当に好きなら別れる、身を引く、という結論もあるのかもしれない。
相手のためになるのなら。
マノンは彼女なりに、彼を本気で愛していた。
だからこそ、彼を誘惑しに行った。
だが、彼を修道士のままにしておく、という選択もあったはず。
そうすれば、彼を悲惨な運命に巻き込まずにすんだはず。
それができないのが、エゴなのかなあ。
同じオペラでいえば、『ラ・トラヴィアータ(椿姫)』は、
身を引く女だ。
愛する彼のお父さんに、別れてくれ、と頼まれたから。
高級娼婦であって彼女は、一度道を踏み外した女は幸せにはなれない、と泣く。
最後は駆けつけた彼の腕の中で息を引き取るけれど、
デュマの原作では、彼女は死の際、彼には会えていない。
オペラ化するにあたって、それではあんまりかわいそう、ということで
おそらく彼の腕の中で死ぬ、と変えたのだろう。
原作は悲惨だ。
だが、自分から別れることが、彼への愛の証だったのだろう。
歌舞伎には、そういう「愛想づかし」をする舞台がいくつもある。
本当は好きなのに、嘘の愛想づかしをして、彼を本来の居場所に戻す。
こういう女心は、とてもせつないが、女としては一級品だと思う。
通常はそれがなかなかできないのだから。
アメリカのハリケーン、カトリーナなみの台風が日本にも接近中。
しかし、「カトリーナ」という名前の女性、アメリカにはいないのだろうか。
あんな強大で荒れ狂ったハリケーンと同じ名前じゃ、
やってられないような気がするが・・・。
それにしても、カトリーナは人災という意見も出始めているという。
車がない人、貧しい黒人層が地元に残ったそうだが、
彼らを早いうち、脱出させる手だてをとるべきだっただろう。
しかも、いくら広大な土地だとしても、確かに救援体制が遅すぎる。
避難所に着いてから、多数の死者が出ている、というのも気にかかる。
ライスさんが、早速避難所にかけつけて、差別だの人災だのという批判を
交わそうとしているが、ああいう光景を見るにつけ、
人種問題というのは、そう簡単に解決できないのだなあ、と思う。
彼女は本当にそう思ってやっているのかもしれないが、
見ている限りでは、やはり「ライスさんはブッシュ政権に利用されている」と
思えてしまう面がある。
私はどうも、「差別」に対して鈍感だ。
異質なものを排除する、という神経がそもそもよくわからないので、
差別する側の心理がまったく理解不能。
だが、その分、される側への共感も薄いかもしれない。
身近に外国人がいたわけでもないし、ただのこてこての日本人なのだが、
シカゴにマイケル・ジョーダンの試合を見に行ったときは、
勝った瞬間、隣にいた見知らぬ黒人のおねーさんと抱き合ってしまったし、
アフリカ系黒人のおにーさんと日本で友だちになったこともある。
日本に住む、中国人のかわいい女の子の知り合いもいる。
だが、おそらく、私は差別される側の本当の悲しみは知らない。
韓国や中国などの人との関係でも、たぶん、何もわかってない。
逆に言うと、たいした愛国心ももっていない。
生まれた国や環境なんてものは、「たまたま」だと思ってきたから。
だけど、最近、なんだかそういうことも、理解できないなりに
きちんと知るべきだし、自分の考えをもつべきだろうなと思うようになってきた。
問題意識が生まれ出ずるのが遅い・・・と我ながら思う。
昨日の日記、タクシーの「近代センター」と書いてしまったが、
「近代化センター」の誤り。訂正します。
フォローするわけではないが、もちろん、最近は感じのいい運転手さんは増えた。
あまりに暑いとき、あるいは重すぎる荷物をもっているとき、
近いのはわかっているけど乗ってしまうことがある。
悪いなと思うから、「近くて申し訳ないんですけど」という一言を添えると、
「なに言ってんですか、お客さん。近くたってお客はお客だよ」って
言ってくれる運転手さんも多くなった。
そんなときは、ほっとする。
なんの関係もない人に心慰められること、というのがある。
あるとき、インタビューした人が言っていた。
失恋して仕事もやる気がなくなって、旅に出た、と。
自分ではリフレッシュして、再度がんばるぞ、と心に誓っていたから、
一応、元気になったつもりでいたのだが、
飛行機の中でスチュワーデスさん(今はキャビンアテンダント、と言うんだっけ)に
優しくされた瞬間、号泣してしまったのだという。
気持ち、わかるなあ、と私も目がうるうるしてしまった。
そんなとき、「あ、私、弱ってたんだ」「泣きたかったんだ」と
わかったりする。
働く女は、いつもたいてい、どこか突っ張っているから、
自分が悲しいとかつらいとか、わからなくなっていることが多いのかもしれない。
今の時代になっても、やはり働く女たちは突っ張っている。
私の周りにも、ストレスからか、安定剤や睡眠導入剤が手放せない女たちが、
最近、ものすごい勢いで増えている。
どうしてそこまでがんばるのか。どこかに甘えられる場所はないのか、と
思うけれど、ずっとそうやってがんばってきてしまったのだから、
今さら、肩の力の抜き方がわからなくなっているのかもしれない。
私は悲観的がベースで、最後は楽観的に開き直るタイプだし、
なるべく自分も人も追いつめないようにしたいと思っているので、
最後の逃げ道は残してあるつもり。
眠れない、食べられない、とは無縁の生活なのだが、
周りには自分も人も追いつめてしまう女性たちが増えているように思う。
もっとも、気持ちはよくわかる。
結婚していてもいなくても、「自分の人生」を考えれば、
ある程度の年齢になると不安が出てくる。
ましてフリーランスの場合はよけいだろう。
ただ、今の世の中では、正社員だっていつリストラされるかわからない。
そう言う意味では、現代に生きていること自体がストレスになる。
でも、それを正面から考えてもしかたがない。
やはり、明日死んでも悔いがないように・・・という生き方しか
できないような気がする。
以前は、「人生、何が起こるかわからない」というのは、
そんなことはめったにないけれど、という状況のもとに言っていた言葉だが、
今は本当に何が起こるかわからない確率が上がっている。
地震、事故、無差別殺人、テロ・・・。
どこでどんなことに巻き込まれるのか、わかったもんじゃない。
くよくよ生きていても始まらない、と思ってしまう。
ま、それでもあれこれ考えるのが人間なんだけど。
夕方から夜にかけてせっせとウォーキング。
3日連続。今日はものすごくストイックに、脇目もふらずに
大股早足でせっせと歩いた。いつもよりずっと速く。
「無心」の境地に達することができたらおもしろいなあと思ったのだが、
やはりなかなか、煩悩は消せないようだ。
夜になってひどい頭痛。
私は滅多にどこかが痛むことがないので、
これは珍しい現象。
あ、でもときどき、お腹がすくと頭痛がすることがある。
これはおそらく、糖分が脳にいっていないからだろう。
友人で、お腹がすくと、急に無口になる女性がいる。
わかりやすくておもしろいのだが、不機嫌になるのは困る。
私はあまりテンションの高い人間ではない。
だから見るからにエネルギッシュで、いつでもいつでもハイテンションの
人って、ちょっと疲れる。
ただ、いつもご機嫌でいることは大事なことだと思う。
人間の生活には、いろいろなことがあるから、いつもご機嫌ってのは
むずかしいと思うけど、それでも、せめて不機嫌にならないことは
とっても重要。
タクシーなどに乗ると、今でもいる。
行き先告げても返事さえしない運転手さん。
なぜこんなにこっちが不愉快な思いをしなければいけないのか、と
考えさせられてしまうほど。
私はけっこう強引なところがあるので、返事が返ってこないときは、
「聞こえましたー? ○○まで行ってくださいっ」と再度言う。
それでも無視するときは、運転席の後ろあたりにある、
近代センター宛のはがきをさりげなく、手にしたりする。
我ながら厭味な女だと思うけど。
そうすると、たいてい態度が豹変する。
そういう意味では、最近、増えている女性ドライバーのほうが
態度はずっといい。明るい女性が多い。
どんな仕事も、ある種、サービス業じゃないかなあ、と時々思う。
ま、まったく人に接しない仕事は別として。
歌舞伎の作者であった、河竹黙阿弥は、いつも三親切、ということを言っていた。
「お客に親切、座元に親切、役者に親切」。
これが彼が、歌舞伎を書くときの鉄則だった。
まさにサービス業。
私もそう思う。
「読者に親切、編集者に親切、取材先に親切」。
これが守れたらなあ・・・希望と願望でしかないのだが。
一番目と三番目はともかく、編集者に親切なライターとは
言えないだろうなあ・・・。
突然、ある歌を思い出した。
チューリップの歌だ。
「わがままは男の罪〜、それを許さないのは女の罪〜」という出だし。
タイトルを忘れてしまった。
『虹とスニーカーの頃』? 違うか。
高校生のころ流行ったのだが、当時はこれを聞いて、
私はけっこうぷんぷん怒っていた。
若かったな〜。
でも、ぷんぷん怒っていた自分も悪くない。
若いのに、この歌の歌詞がわかったら怖い。
シンプルな言葉だけど、この歌詞は味わい深い、と思う。
私はフェミニストだと思われがちなのだが、
全然、そんなことはなくて、存在として男女は等しいけれど、
男は男、女は女であってほしい、そうありたいと願うタイプ。
なんせ、世の中、もっと色っぽくなればいいと思っているのだから。
程度問題ではあるけど、男はわがままでいい。
あー、違うな。今気づいた。
好きな男にはわがままであってほしい、という願望があるのかもしれない。
女をちやほやするよりは、ちょっとわがままでいてくれる男のほうが好ましい。
そんな男のわがままをちょっぴり恨みながらも、許してしまう女でいたい、
というのが本音かもしれない。
それでいて、どこか男の背中をぐいと押してあげたい。
そういう存在でいたい。
エディット・ピアフというシャンソン歌手がいた。
彼女は恋多き女だったが、自分が地位を築いてからは、
若くて実力のある男性歌手たちを、どんどん世に送り出した。
まれにみるプロデューサー能力のある女性だったのだ。
もちろん、若い彼らに恋もした。
だが、彼女は、彼らの名前が世に出ると、自分から去っていくのだ。
その潔さは、ものすごくかっこいい。なかなかできることじゃない。
ついでに・・・昨夜、深夜のテレビで、梅沢富美男の「夢芝居」を聞いた。
これまたなつかしい。
私も一時期、大衆芝居にはまって、都内の小屋を巡ったものだ。
梅沢一座が、まだ十条の小屋で芝居をかけていたころだ。
そのうち有名になって、小さな小屋には出なくなってしまったけれど。
この中で好きな歌詞。
「男と女、あやつりつられ、細い絆の糸引き引かれ
稽古不足を幕は待たない 恋はいつでも初舞台」
恋なんて、自分の意志でしているようで、実は見えない糸に
操られているのかもしれない、と思ったりする。
それはそれで、なんだかいいなあ、とも思う。
誤解と錯覚、魔法のなせるわざ、恋に関してはいろんな言い方があるけれど、
始まりもプロセスも、おそらく意志だけではどうにもならない。
恋に意志が存在するとすれば、きっと結末だけではないだろうか。
選挙も近いが、立候補者の女性たちのことがいろいろ取りざたされている。
特に気になったのが、エコノミストの女性の「不倫メール」・・・。
私は、目的のために手段を選ばない、という方法を否定しない。
のしあがってやる、というタイプの女性も大好き。
なりふりかまわず、男を踏み台にしてのし上がっていく女性、いいじゃないと思う。
彼女とは同じ世代なのでよくわかるのだが、
人生40年以上生きていれば、叩けばほこりはいくらでも出る。
そこを今さら取りざたするのもどうかなあ、という気がしてならない。
人間、聖人じゃないんだから・・・。
人間って、誰もが暗い面、黒い面を持っていると思う。
持っていなければおかしい。
それをバランスとって生きられるようになるのが、
やはり40代からなのではないだろうか。
20代、30代のうちはアンバランスで当然。
ただし、自分の心の奥底に潜む「黒い面」には、
気づいておいたほうがいいと思うけど。
たとえば、「殺意」とか。おそらく、人間の黒い面の中でも
もっとも濃い闇の部分だと思うが、
私も人に殺意を抱いたことがある。けっこう真剣だった。
あのまま殺意に巻き込まれていたら、実行してしまったかもしれない。
だが、かろうじて私は自分の殺意に気づくことができた。
気づいて意識したから、表向きの過ちは犯さずにすんだ。
意識的にせよ無意識にせよ、人はたぶん、
裏切ったり裏切られたりを繰り返しながら生きていく。
自分の冷淡さやずるさをわかっていながら、
表向き、いい顔をする。
でもそれを意識しているかどうか、つまりは自分の弱さや汚さに
気づいているかどうか、が問題なのではないだろうか。
叩けばほこり、脛に傷。
お天道様に顔向けできない・・・なーんていう
生き方をする時期もあるかもしれない、人間だから。
でも、そういう時期があったからこそ、今がある、とも考えられる。
ほとんど自己弁護のような日記になってしまった。
今日、とある俳優さんにインタビューしていて、
「男女の信頼関係」がいかにむずかしいか、で話が弾んでしまった。
信頼関係を築くのは本当にむずかしい、プロセスで誤解も生じる。
だけど、いったん築いた信頼関係が崩れるのは非常に簡単。
ふとしたことで、がらがらと関係が崩れる音を、私も聞いたことがある。
どっちが悪い、とかそういう問題ではなくても、
信頼関係は崩れるときは崩れてしまう。
では信頼関係はどうやって築けるのか、という話にもなった。
「愛とは、決して、後悔しないこと」という有名な言葉があった。
私なら、「愛とは受け入れること」かなあ。
相手の状況、短所も含めた性格、すべてを受け入れること。
それをベースにして、信頼関係というのは築けるのではないかと思う。
むずかしいことではあるが・・・。
投稿者:さなえ 投稿日:2005/08/31(Wed) 23:45
昼間、仕事に出て、夕方戻り、ウォーキングに出た。
早足でさっさと歩く。なるべく腕を振り、大股で歩く。
人がいないところはさみしいので、私は大きな道路沿いや商店街を歩く。
ところどころで走って、多少、心拍数を上げ、また早足に。
帰ってきたらお腹がすいて、食べ過ぎてしまった。
これじゃ、何にもならないのだけど・・・。
昼間仕事に出たときも、一駅分、歩いてしまったので、
今は眠くてたまらない。
こんな時間に眠くなっては、仕事にならない。
濃いコーヒーをいれて飲む。
さて、一仕事がんばろう・・・。
夏はオペラシーズンではないので、かなりオペラ枯れとなる。
ヨーロッパあたりでは音楽祭シーズンだが。
昨日は久々のオペラ。
「アドリアーナ・ルクヴルール」。
この話、陳腐といえば陳腐なストーリーだ。
とある女性が、男に二股をかけられ(実は男の心は他の女性から彼女に移っている)、
最後はその恋敵である女性に毒を盛られて死んでしまう、という話。
背景を抜きにして簡単に書くと、ホントに陳腐かもしれない。
しかし、陳腐な話ほど、人の心を打つ。なぜなら、誰にでもある感情を
題材にしているから。
さらにオペラの魅力として、美しい音楽と歌手の声の力、歌の力がある。
愛する歓び、嫉妬、誤解、疑惑、怒り、絶望など、人間のもつさまざまな感情が
浮き彫りになっていく。
オペラを聴きながら、ふと考えた。
人を好きになることがせつないのは、その人の過去に膨大な時間が、
自分の知らない時間があるからかもしれない。
それは過去だけではなく、現在についても言える。
わかりたい、だけどわかり得ない。わかるには時間が足りない。
だが、厳密にいえば、それは一緒にいても同じこと。
今この瞬間、相手が何を考えているかなんてわかりようがない。
頭や言葉で「知る」ことだけがすべてではないように思う。
知ろうとせずに、ふたりの間を埋めていける術だってあるはずだ。
オペラというのは、もちろん時代も環境も現代とは違うけれど、
人の感情、という意味ではまったくかわりない。
それは歌舞伎にも落語にも、あらゆる舞台にいえること。
芸術だの娯楽だのといった、種分けもあまり意味がない。
自分の「感じ方」を大事にすればいい。