このタイトル、エッチな話題ではない。
と断ること自体が怪しいけれど・・・。
実は人間の魅力について。
人と話していて、人間の魅力って、なんだろうと改めて考えてしまった。
私は「クール」に見られるのだが、実は案外、熱血のところがある。
しかも強情。最終的には「ケツまくっちゃえばいい」と思っている。
基本的に自分が見たことしか信用しないので、
他人からの「人物評」など関係なく人とつきあうけれど、
その一方で、かっとなって「それは違う」ときつい言い方をすることもある。
もうちょっと、柔らかい言い方があるだろーと自分でも思うのだが、
特に仕事関係では譲れないものは譲れない、とかたくなになる。
自分のセオリーを捨てないと、幸せにはなれない、と
言われたこともあるのだが・・・。
年取るとものがわかってくる、なんて大きな間違いで、
私はますます頑固になっていく。
ま、自分の身に降りかかることの大半はどうでもいいようなことなので
寛容にもなれるのだが、仕事と恋愛だけは別。
そもそも、仕事も私生活も一匹狼なわけで、
(ちなみに動物占いがはやったとき、やってみたら、狼だったので笑った)
組織というところに属したことがないので、
やはりどこか人間的にはみだしているのだと思う。
このところ、ようやくそれに気づいてきて、
若い編集者に、「私っておかしい?」「なんか変?」
「厭味なババアになってない?」などと聞いてしまうことがある。
嫌われたくない、というのではなくて、世間がいう「ごく普通」の
線引きが知りたいのだ。
自分を客観的に見る目が、かなり鈍っているような気がする。
いつもけっこう、くだらないことで怒ってるもんなあ、と反省。
自分を見つめる真摯な目と、人を受け入れる器の大きさ。
それが自分の幅を広げ、心を深くし、さらに丸くて太い気持ちを
もてる要素なのかもしれないが、なかなかそうはいかない。
もっと修行と精進が必要なようだ。
夕方から外に出た。家にこもってうなるのに飽きてしまったから。
興が乗って、2時間近くも早足でウォーキング。
汗みどろになって帰宅した。
身体を使うと、やはり気分がすっきりする。
最近、女友だちから、「彼に会って」と言われることが多い。
うーん、私が男を見る目があると思っているのだろうか。
あったらこんなに苦労してないのに・・・と思いつつも、
(いつもオマエが悪いんだろー、という神の声が聞こえるが)
なんとなく興味があって一緒に食事なんぞしてしまう。
私が人を見るときのキーポイントは、笑顔がゆがんでいないかどうか。
笑った顔がゆがんでいる人は、どことなく信用できないから。
あとは目、かなあ。
目を合わせない人はやっぱり信用できないし、
目の持つ力の弱い人も、どことなく生命力が弱いような気がする。
生きてきた道筋ってのは、必ず表情に出るものだ。
... 続きを読む
ようやく新しい本を書き始めた。
少し取材を追加したりしていたのと、生来の怠け癖で
なかなか取りかかれなかった。
実は取りかかろうと決めてから、実際に取りかかるまでが
けっこう苦しい。書き始めも苦しい。
途中で楽しくなって、最後がまた苦しい。
でも、私なんかにいろいろ話してくれた人たちの気持ちに報いるためにも
なんとかがんばろう、という気持ちが支えになる。
ときどき、いくつまで恋愛ができるのかなと思うことがある。
二十代のころ、四十代の女が恋愛なんかできるはずがないと思っていた。
だが、自分が四十代になってみると、
とりあえず現役でいるという現実がある。
こんなことをフランス女性に言ったら、きっと笑われるだろう。
大好きなフランスの女性作家は、うんと年下の恋人と来日してたし・・・。
もしかしたら、日本人の感覚だと、恋していたいは「愛されたい」に
つながるのかもしれない。
だから不安になる。いくつまで恋できるんだろうなんて思ってしまう。
でも、恋愛はやはりひとりではできないわけだし・・・。
ひとりで生きていく覚悟、というのはできてはいるのだが、
それはあくまでも「恋愛している」こととは切り離せなかった。
恋愛しながら、ひとりで生きていく、と思いこんでいたのだ。
だけど、本当にひとりぽっちになる可能性もあるんだなあ、と
夫ナシ、子ナシの私は最近、つくづく思う。
とはいえ、「家族」を作りたいとは思わないし、今さら作れもしない。
もちろん、年とっても、きっと友だちはいるだろう。
でも友だちは「恋人」とは違う。
あれやこれや答の出ないことを考えてしまう。
こうやって、とりとめもないことを考えるのは、
原稿から逃げたいからだ、と今、気づいた。
全生庵に行ってから、再び、私の中で幕末が気になってならなくなった。
新撰組や坂本龍馬にはまったのが、たぶん10年くらい前か。
今日は司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」を上下、一気に読んでしまった。
これは新撰組、中でも土方歳三にスポットを当てた作品。
司馬さんといえば、彼が何かを書くたびに、神保町の古書街から、
そのテーマに関する本がすべて消えたというくらい、資料を大量に集めて
読み込んで書く人として有名だ。
新聞記者であったということ、彼の人となりでもあるのだろう、
書き方は公正中立で、なおかつ登場人物を見る目が優しい。
そんなところが人気がある理由だろう。
土方歳三という人は、どういう人だったのか。
百姓上がりで武士になりたくて、最後は武士になったけど、
結局は「喧嘩師」として死んでいく。
新撰組という部隊を強いものにしていくのが目的ではあったけど、
結果的には天下国家の行く末を見通すことはできなかった。
今回読んで印象に残ったのは、「お雪」という女性の存在。
もちろん、「燃えよ剣」は小説だし、司馬さんという作家は、
資料と虚構の間を埋めていくのがきわめてうまい人なので、
どこまでが真実かわからない。
ただ、京の女性になじめず、お雪という江戸出身の女に、
生涯唯一の「恋」をした歳三。
ふたりが最後の逢瀬をかわすところなど、思わず号泣してしまった。
これが史実であればいいなあ、と思う。
新撰組が歴史に果たした役割がどれほどのものなのか
よくわからない。
むしろ歴史や幕府に翻弄され、利用された、
エネルギーあふれた若者軍団というイメージが強い。
もう少しの間、幕末に浸ってみよう・・・。
下の日記の補足。
仕事なりプライベートなりで、私と直接関係のある人が
これを読むと、きっと私には奢られたくない、と思ってしまうだろう。
だが、私自身は人に奢るのが嫌いじゃない。
もちろん、恩着せがましい気持ちにはならない。
実は私はお金には非常にアバウトで、なおかつ「金は天下の回り物」と
思っている。
宵越しの銭はもたねえ、という気質でもあるし、
そもそも、こういう仕事で生活していること自体が、
「きちんと働いている」ことになってないような気がするので、
これは逆にたまには人にご馳走しないと罰が当たる、と思っている。
私が下で書いたのは、あくまでも自分が奢ってもらった場合の話。
今週はお盆の影響もあって、なんだかのんびり過ごしてしまった。
それなりに打ち合わせ等はあったのだが、
立て続けに取材が入る、という状況ではなかったので、
気分的にはのんびり。
「パッチギ」という映画を見た。
1978年の京都を舞台に、日本人と在日の高校生の恋と、
青春を描いた作品。
クルセイダースの「イムジン河」がもうひとつのテーマとなっている。
「北へ帰れば楽園が待っている」と信じられていた時代。
そしてそれを推進した日本政府。
当時、発禁処分になった「イムジン河」という歌が
この映画の中では思い切り陽の目を浴びている。
とてもいいメロディ、そしてせつない歌詞。
映画自体は娯楽作品として作られているので、
あまり深刻な内容にはなっていない。
政治的背景、時代背景も踏み込んだものにはなっていない。
最後がハッピーエンドすぎるのも、ちょっと余韻がない。
それでもやはり、この映画はいいなと思った。
それは、軽さの中にある壮大なテーマのせいだ。
映画から、「愛はすべてを乗り越えられるのか」と正面切って
突きつけられたとき、どこか慄然とさせられるものがあった。
いろんな状況があるから、一概に「乗り越えられる」とは答えられない、
というのが、大人の回答だろう。
それは事実だけど、真実ではないのかもしれない、と思う。
「すべてを乗り越えられる」と答えられないのは弱さだから。
若いときなら、私も当然、乗り越えられる、と胸を張ったはず。
だが今、二の足を踏んでしまうのは、そうではない事実を経験として経たから。
でも心のどこかでは、乗り越えられる、と思いたいし答えたい、と
感じている自分がいる。
愛しているから強くなれる、ということばかりではない。
相手の気持ちを慮るゆえに、弱気になることもある。
それでも、もしかしたら乗り越えられるのではないか、という
気持ちは忘れてはいけないのではないか、と思う。
人は弱いから、周りからの圧力や「常識」や自分の中の「倫理観」に
めげてしまう。めげてしまうことがラクだったりもする。
まあ、愛という言葉に多少の抵抗はあるけれど、
「人が人を想う気持ち」の強さがあれば、実はいろいろな方法で、
困難を乗り越えることができるのかもしれない、と
映画を観ながら感じていた。
知恵と勇気と、道を切り開いていける明るさがあれば。
そういう意味では、どんな事態に陥っても、
「深刻になりすぎない」ことが重要なのかもしれない。
必ずどこかに道はあるはずだから。
今日は町屋のもんじゃ屋さんへ、菊之丞さんの落語を聴きに行った。
こういう落語会というのは、ひとりにつき時間がたっぷりあるので、
聞きごたえがあって好き。
もちろん定席の寄席には、特別な寄席ならではの雰囲気があって好きだが、
なにせひとり頭の時間が短いので、ちょっと欲求不満になってしまう。
今日は「青菜」。夏ならではの滑稽な話だが、すんばらしかった!
私は「自分探し」とか「本当の自分」という言葉が、
どうしても好きになれなくて、探すほどの自分があるのかい、とか
どれも本当の自分だよ、とか、そういう言葉を聞くにつけ、
ひとり突っ込みを入れてしまうタイプ。
それでも、ある日、人との関係において、自分自身、気づかなかった潜在意識みたいな
ものが表面化してくることがあるのだなあ、ということをふと発見した。
だからどう、というわけではないのだけれど、
自分の中でずっともやもやしていたものが、なんとはなしに解決、というか
納得できたような気になるのは悪いことではないのかもしれない。
年下の女友だちと話していたら、彼女は恋愛において、
「お姫体質」だという。私は無条件で、お姫体質の人が羨ましい。
私は完璧、下女体質だから。
彼女は、「男がつけあがったり図に乗ったりするのが許せない」という。
ひえ〜、私はひたすら男を図に乗せてしまう。
だって好きな人には、好きなことをしてもらいたいし、
その人がいちばんいい状態でいられたらいいなあ、と思うから。
自分のためには神仏に祈ったりしないけれど、
好きな人のためなら、どんな神様だって仏様だって祈っちゃう。
お姫体質の女は、「私のために何をしてくれるの?」がキーワードなのだろう。
下女体質の女は逆で、「あなたのために何ができる?」がポイント。
「どれだけ無理してくれるか確かめないと、幸せになれないっすよ」と
お姫は言う。
しかし・・・下女にはそれが言えない。だから下女なんだけど。
些細な無理に、下女は感動して、それ以上、自分から強いるなんてできない。
まあ、愛情を何で測るか、という問題にもなってくるのだが、
お姫は、金だ、などとほざく。
下女は気持ち、と控えめに言いつつ、内心、時間と手間だと思っている。
案外、下女のほうがわがままだったりして・・・。
いや、でも時間と手間は物理的に可能不可能が生じるから、
最終的には「気持ち」なんだろう。
でも悲しいことに気持ちは測れない。
だから下女は、相手の一言に一喜一憂するわけだ。
「恋」を貪り尽くしているのは、さてどっちなんだろう。
「人生劇場」のDVDを買って観た。
いやー、感動感動!
私は任侠ものがけっこう好きで、高倉健の「昭和残侠伝」は全部観ている。
「仁義なき戦い」になるとちょっとついていけない。
暴力団ものではなく、任侠ものが好きなのだ。
そのふたつは似て非なるもの。
今回の「人生劇場」は、尾崎士郎原作の映画化。
いくつか映画化作品はあるようだが、1972年公開のもので、
竹脇無我、田宮二郎、高橋英樹、渡哲也、倍賞美津子などが出ている。
たまんないんだわー、あの男の世界。
そしてそこにからむ女たち。
男が生きて、女が息づいている感じ。
主題歌はかの有名な美空ひばりで、これがまたいいところで歌になる。
「や〜ると思えば〜、どこま〜で〜やるさ〜」
女は男に惚れると弱いようで強くなり、
男は女に惚れると強いようで弱くなる・・・と見た。
それでも惚れ合った同士の縁は巡り巡ってまたつながる。
男の執着と女の執着の微妙な違いとか、
義理人情の確かさとか。
まさに日本の美学である。
ベタな感じから、若い人たちはいやがるのだろうけれど、
私は昔から「義理人情」という言葉が好きだ。
よく親から、「義理欠く、人情欠く、恥かく」と言われた。
義理人情をないがしろにすると、最後に恥をかくのは自分だよ、と。
古い世代が集う政治の世界でさえ、もはや義理人情なんて
言ってられない世の中になっているが、
私は逆に、今の時代だからこそ、義理や人情を大事にする文化が
再認識されてもいいのではないか、と思う。
義理や人情を大事にする、ということは、
べたべたになれ合うこととは違う。
すべて「筋」を通す、ということだ。
任侠ものには、「やっていいことといけないこと」が
非常にわかりやすく綴られている。
渡世もんの映画等で、よく「一宿一飯の恩義」という言葉が出てくる。
私もかなりこの言葉に支配される。
たとえコーヒー一杯でも、立ち食いそば一杯でも、
人が働いて得たお金でおごってもらうというのは
実は大変なこと。
そのたびに「一飯の恩義」と思ってしまう。
もし、それに見合うお返しをしたとしても、その「恩義」は
消えたことにはならない。
お返しはお返し、恩義は恩義。
仕事でも私生活でも、いろいろな人に
協力してもらったり、支えてもらったりすることが多い。
私には何ができるのだろう、とそのたびに考えるけれど、
何もできないことが多くて・・・。
損得感情抜きで、義理人情を重んじる世の中・・・に
もう一度、近づくことはできないのだろうか。
ビデオとDVD一体のデッキをもっているのだが、
かなり前に壊れたまま・・・
先週、メーカーに修理を依頼したら、お盆休みということで、
ようやく今日、来てもらえて直してもらった。
銀行行ったり郵便局から荷物を出したり、
私も今日は野暮用をいろいろこなして、
なんとかまともな日常生活を送れるようになった。
調子に乗って、夕方からはウォーキング&ジョギング。
去年の夏から秋にかけて、けっこう凝っていたのだが、
去年は台風が多くて、いつしかやめてしまっていた。
久々に早足で1時間半ほど歩いた。
途中、これまた調子に乗って走ってみたら、
最初はよかったんだけど、途中で目まいが・・・。
なんでも急にやってはいけない、ということだろう。
それでもがんばってみようかな、と思ったら、
腰に張りが感じられたのであわててやめる。
持病の椎間板ヘルニアが出てしまったらえらいことになる。
もうずいぶん前の話だけど、ある日突然、立ち上がれなくなった。
ちょうど取材が終わって、相手を送り出そうと立ち上がろうとしたときだ。
壁にすがるようにしてなんとか立ち上がったけど、
そのままタクシーで家に帰った。
何が起こったのかよくわからない。
とにかく腰から下が痛くて歩けない。
駅まで5分の道のりが、冷や汗だらだらで30分もかかる。
それでも取材が毎日入っていて、病院に行く時間がとれなかった。
杖を買って、杖にすがるようにして取材に行った。
ようやく病院に行ったのは10日後。
MRIをとるまでもなく、レントゲンで見て、
「なんと立派な椎間板ヘルニア」と医者が喜んだ。
絶対安静、緊急入院3週間、と宣告されたが、
「休んだらご飯が食べられない」と泣きついて入院は阻止。
その後、MRIをとったり、念のため他の病院で診てもらったりしたが
見立ては同じ。いっそ手術を、とまで言われた。
それでもたったひとりで日常生活と仕事を乗り切った。
1回も取材に穴はあけなかった。
今になると、あの痛みを乗り越えられたんだから、
ある程度のことは、ひとりでなんとかなるだろう、という気がしている。
だが、年とともにやはり腹筋背筋が衰えていくせいだろう、
無理をすると腰のあたりが怪しくなる。
いたわりすぎるのも悔しいし、
やはりここは鍛え直すしかない、と決意したところ。
人間の身体というのは、使わないとどんどん衰えていくそうな。
多少の無理はしても、今鍛え直さないといけないなと思う。
これからどんどん衰えていくばかりだもの。
「あるがまま」ではいられない。
どこまで年齢に逆らえるか、どこまで受け入れるか。
以前、テレビに十朱幸代さんが出ていて、
司会者がその若々しさに驚き、「いろいろやっていらっしゃるんでしょう」と
尋ねたら、「多少の努力はしてますよ。そうでなきゃ
保てないのよー」とにっこり答えた。
かっこいいな、と思った。
「何もしてません」というのも白々しいし、
かといってがんばりすぎてます、というのも嫌らしい。
彼女はさりげなく、「年齢に抵抗する自分」を正直に見せていたので
とても好感がもてた。
私もがんばろっと。
人にはいろいろなコンプレックスがある。
人生を左右しかねないくらい大きなものから、
他人が聞いたら「たいしたことない」と思うようなものまで。
それでも本人にとっては、一大事だったりする。
年齢を経るにつれて、コンプレックスはあっても自分とはつきあって
いかないといけない、という結論に達していくのだが、
それでもなかなか脱しきれない傷もある。
年をとって改めて甦ってくる傷もあったりする。
すべてにおいて、日にち薬が効くとは限らない。
一生、背負っていかないといけないような重荷を人に
打ち明けるのは勇気がいる。
ひょっとしたら、その人との関係が壊れる可能性もなくはない。
それでも、墓場まで持って行こうと思っていたことを、
この人なら、とひょいと打ち明けたとき、
とても気が楽になったことに気づいたりする。
打ち明けられたほうは重くてしかたがないかもしれないので、
迷惑をかけることになる恐れもあるけれど。
だけど、気が楽になりたくて打ち明けたわけじゃない、と
言ったあとで気づくものだ。
この人に受け止めてほしかったのだ、という事実だけが残る。
無意識のうちに、人は人を観察して、
この人なら、という思いで話をしているのかもしれない。
ただ、もちろん、見誤ることはいくらでもあって、
豪放そうに見えた人が意外と繊細だったり、
繊細そうな人が、意外と大胆な決断をする人だったり・・・。
人を見る目、なんてそう簡単に養えるものではないけれど、
とことん人を信じてみるのもいいかもしれない、と思う今日このごろ。
今日は敗戦記念日。
私はもちろん、戦争を知らない世代なのだけど、
この日は「終戦記念日」より「敗戦記念日」のほうがぴんと来る。
あの時代、なぜこの国は戦争に突き進んでしまったのか。
他に方法がなかったのか。
私の母は、東京大空襲で逃げまどった世代だ。
焼けこげた死体をまたいで逃げたという。
私の叔父にあたる人も戦死している。
無差別に人が死んでいく、殺されていく。
そんなことがあっていいわけがない。
日本は平和ぼけだから戦争したほうがいいんだ、なんて
言うヤツがいると、私は殴りたくなる。
どんなに理屈をこねくり回されようが、戦争をしてはいけない。
加わってもいけない。
60年という節目の年に、誰も彼もがそう誓ってほしい。
青いと言われてもかまわない。
繰り返される戦いの歴史の中で、本当の勝利者がいた試しがあるのだろうか。
今週は後半特に、比較的ゆっくり過ごした。
演舞場の「もとの黙阿弥」、そして菊之丞さんの落語会へ。
「もとの黙阿弥」は20数年前に初演だったそうな。
私はそれを見ていて、すごくおもしろかったという記憶があった。
だが、今回は・・・うーん、時代の流れか、私の感性が鈍くなったのか、
初演時よりおもしろいとは思えなかった。
今見ると、失礼ながら、初演時は役者の格が違う。
菊之丞さんは2席。
「元犬」と「妾馬」。
どちらも大好きな話だし、どちらもすばらしかった。
もうちょっと緩急をつけたほうがいい、と思える箇所もあるのだが、
(特に妾馬の殿様のくだりなど、ほんのもう少し間があってもいいような)
それでも酔っぱらった八五郎などはとってもうまい。
おふくろに子供を見せてやってくれ・・・のくだりは情もたっぷり。
落語と音楽の宵、ということで、
音楽のほうはシンガーソングライターの江戸賀あい子さんの舞台。
この人が、また素晴らしくいい声だった。
伸びやかで明るい歌い方ながら、声にせつなさがある。
人生、酸いも甘いもかみ分けた大人の声、そして大人の歌い方。
「PASSION」というCDも出ているので、ぜひ聞いてみてほしい。
内に強い情熱と、どこか純粋さを秘めた大人の歌であり、
大人の歌い手である。
大人ってなんだろう・・・と人生半分以上すぎてしまった
私は考えることがある。
自分を大人だとは思えない。
子供を育てるという経験をしていないから、やはり自分自身を
育て切れていない面があるように思う。
それでも、子供のころの小ずるさと純粋さをひきずったまま
大人になってきたのだなあ、と感じることがある。
小ずるさは分別、という表現方法を覚えたのかもしれないが、
純粋なところというのは、意外とさらに純化されているのかも。
自分なりにいろいろなことを経験してきたと思うけど、
この年になって、自分自身の原点に戻れているような気がしている。
今朝、ふと思い出したことがある。
小学校のころ、遠足に行って、私と数人のグループが道に迷った。
山道を、みんなと違うルートで帰ろうとしたからだ。
当時から、「人と同じ」ことをするのが嫌な子供だった。
とはいえ、小学生が遠足に行くような場所だから、
山というか林のようなものだったと思う。
私たちとしては、「迷っている」意識はなかった。
ルートは違っていても、結局、戻れる自信があった。
だが、教師たちはそうは思わなかったらしい。
けっこう大騒ぎになっていて、下に降りたらすごい勢いで叱られた。
「心配したのよ!」と教師が怒りまくっていた。
心配した、と言いながらなぜ怒っているのかわからなかったし、
子供心に「大丈夫なのに、心配したのは勝手でしょう」と思っていた。
ませた嫌なガキだ、今思うと。
こっちは自信満々で帰ったのに、違うルートで帰ったことを
褒められずに怒られたのが納得いかなかった。
それ以来、私の心の中には、「心配するのはエゴかもしれない」
という思いが巣くうようになってしまった。
友だちや大事な人に、何かがあっても、
「心配しているよ」と言えなくなった。
本当に心配だから、心配してる、と言ったら、
私と同じような嫌な性格のヤツに、「心配するのはそっちの勝手。
自分が安心したいから、心配しているということを相手に伝えるんでしょ」と
言われたことがある。
ご名答・・・。
それでも自分が落ち込んでいたり、体調が悪かったりしたときに
「大丈夫?」と言われるとうれしい、ということが
少しずつわかるようになってきた。
気遣いすることで、かえって相手に気を遣わせたら意味がない。
だけど、やっぱり素直に伝えたいときもある。
今はむしろ、率直に言いたい。
「あなたのことが心配なんだ。それだけ大事な人なんだ」と。
それを相手が素直に受け取ってくれなくてもいいんじゃないか、とさえ
思うようになった。
もちろん、押しつけはよくない。
感情を垂れ流すのも相手には負担になるだろう。
だけど、率直でありたい、と思うようになってきた。
逆に人に率直に接してもらったら、やっぱりとてもうれしいから。
下心のない純粋な気持ちは、人に伝わるのではないだろうか。
たとえば同じ言葉を発したときに、
相手が「うっとうしい」と感じるか、「うれしい」と感じるかは、
言う側の心の問題なのかもしれない、と思う。
安心したいがための心配と、ただひたすらの心配と。
一見、エゴと優しさは紙一重に見えるかもしれないが、
その心根にあるものは、大きく異なるのかもしれないな、などと
ぼんやりと考えている。
スポーツ観戦好きの私、今はついつい世界陸上を見てしまう。
ヨーロッパタイムで暮らしているようなものだから、
時差などものともせずに・・・。
特に日本の選手を贔屓する気はまったくないけれど、
為末選手はすごかった。
やはり「ドラマ」のある人物に惹かれてしまう。
不調、そしてお父さんの死。
すべてを乗り越えて自らつかんだ、世界の銅メダル。
ストイックであることを尊ぶつもりはないのだが、
やはり自分の道に関して、志の高い人には感動と感嘆とを覚える。
人は楽なほうへ、低きほうへと流れていくものだから。
よく出版関係の人と話すのは、「売れること」を狙うのか、
「いい本」を狙うのか。
もちろん、売れていい本、というのがいちばんいいのだけれど、
なかなかそうはうまくいかない。
私の唯一の誇りは、「ちゃんと取材をする」ということだろうか。
メールですませず、相手に会って話を聞く。
もちろん、遠方であればそう何度も会えないけれど、
どこに住んでいようと、自分から一度はちゃんと会って、
時間をかけて話を聞く。
そういうところが「めんどう」と感じたら終わりだと思っている。
私は非常にいいかげんな人間だし、
快楽が好きだし、怠けるのも好き。
だけど、雑誌にしろ本にしろ、「テキトー」な取材だけは
したくない。そんなことをしたら、自分を許せなくなる。
締め切りを延ばしても、最低限の納得がいく取材はしたい。
今日、ある女性と話していて、
彼女と私の共通点は、「なぜか人と深く関わってしまうこと」だと
意見が一致した。
もちろん、誰とでもではないけれど、
なるべく早めに自分を開示してしまい、相手のこともわかりたい、と
思ってしまうタイプのようだ。
人との関係の基準値が、おそらく世間数値より「濃い」のではないだろうか。
これがいいことか悪いことかはわからないし、
いい悪いで判断するようなことではないのだろうが、
人間関係が希薄だと言われる現代においては、少数派なのかもしれない。
今日は千駄木の全生庵へ。
ここは山岡鉄舟が明治維新で殉職した志士たちのために建てたお寺。
今も残る名作落語を次々と世に送り出した名人・圓朝の
お墓がある場所でもある。8月11日は圓朝忌。
今日は、そこでの圓朝祭りに出かけてみた。
いやー、すっごい人出。
あまりの暑さにひよって、遅く出たのがかえってよかったようだ。
早い時間は人数制限などがあって大変だったらしい。
午後遅めの時間でも、人出はすごかったけれど。
菊之丞さんもポップコーン売りで汗だくになっていた。
境内をちらちら見て、圓朝祭り恒例のTシャツを買い、
暑さにめげて休憩所へ。とはいえ、休憩所も炎天下。
境内の奥にある墓所で、圓朝と山岡鉄舟のお墓にお参りする。
山岡鉄舟のお墓の立派なこと。戒名が大居士になっていたのだが、
院居士と大居士って、どっちが上なんだろうか。
その後、新宿の末廣亭に行こうかと思っていたのだが、
暑くてでろでろに溶けそうだったので、
友人たちと、ほとんど避難するように中華料理屋へ。
そこで、「好きだった人を好きでなくなってしまうのはなぜか」で
盛り上がる。
みんな大人で、ある程度、せつない経験を積んできているからこそ
できる話かもしれない。
帰ってきてからも、しばしそのことを考える。
好きでいることは、それほどむずかしいことなのだろうか。
好き=強烈に欲する、ということであれば、いつか落ち着く時期は
確かに来てしまうだろう。渇望しているからこそ欲しているわけで、
何年もつきあって、「渇望」が薄れれば、欲する気持ちも薄まっていく。
だが、それと「好きでいる」こととは別なはず。
先日も別の人と話したのだけれど、
「ずっと好きでいるためには、いちばん好きな時点で別れるしかない」と
その人は言っていた。もちろん、理屈としてはそのとおり。
もっと「好き」でいるためには、おそらく肉体関係をもたないほうがいい。
そういえば、中里恒子に、そういう不倫の小説「時雨の記」があった。
関係をもたないからこそ、思いが永遠に続く、という話。
吉永小百合さん・渡哲也さんで映画になった。
その記者会見で、吉永さんは、「私なら関係をもつと思います」と
大胆なことを言っていたのが記憶に残っている。
私も同感。とてもいい小説ではあるのだが、好みの問題だろう。
私には、高橋治さんの「風の盆恋歌」のほうが、ある意味、リアリティがある。
これはこの種の恋愛小説の名著。
めったに会えなくても、濃くて深い関係は築ける、ということが
リアルに感じられる小説だ。せつない話だが。
何度読んでも、本を開いて3ページ目には、もう泣けてくる。
ただ、ずっと好きでいること、思い出をきれいに残すことが
どれほど人生にとって重要なのかは、また別の話だろう。
私はリアルでないことはいらない、と思うたち。
写真は嫌い。思い出は頭の隅にとっておけばいい。
それはきれいなものである必要などない。
「今」が自分にとって充実した一瞬であればいい。
なーんて言いながら、充実すればするほど、
その「今」が継続していくことを願ってしまうのは
潔くないのだが本音でもある。
月日のたつのは本当に早い。
もう8月。
少し馬力かけて仕事をしないと、
年内に本が出ないぞう・・・。
せめて年に2冊は出していきたいと思っているのだが、
あれやこれやでなかなか・・・。
がんばらなくては。
締め切りに追いまくられているときの悪い癖。
突然、片付けを始める・・・とはいえ、
私は整理整頓の能力が皆無。
これって絶対、能力の問題だと思う。
私は整理整頓とかインテリアのセンスなどがまるきりないし、
家の中を「住みよくしたい」という願望もない。
とりあえず仕事ができて、ご飯が炊ける場所があれば
生きていける、という感じ。
「生活を楽しむ」という能力もない。
日々の生活をいとおしむように暮らしている人を見ると、
ものすごい劣等感に襲われる。
でも、そういうところに時間と手間をかけるなら、
やっぱりナマの舞台を見たり、人と話したりしたい、と
思ってしまう悲しいサガ・・・。
危うく熱中症になりかかったり、咳がひどかったりした1週間だが、
なんとか回復してきた。
夏の間は、1回くらい近所の病院に駆け込んで点滴を打ってもらうのだが、
(熱が体内にこもりやすく、高熱を発してしまう)
今年は今のところ、なんとかもっている。
水分をきちんととろうがどうしようが、あの「熱がこもるイヤーな感じ」は
一度やってきたら逃げることができない。
仕事上、炎天下やクーラーのない場所に長時間いることもあったりするけど、
なんとか気をつけたいと思っている。
このところの怒濤の取材で、今まで出会えなかった人に会うことができた。
いやー、世間にはいろんな人がいる。
それぞれがみんな、いろいろな想いを抱えて生きている。
私はへそ曲がりなので、生きてるっていいことだ、と諸手を挙げる
気にはならないけど、それでもやはり世間はおもしろい、と思う。
人間にとっていちばん大事なことは、
やはりその人が「自由であること」だという認識を強めた。
誰にもその自由を阻害はできない。
とある女性から、「家庭のある男性を好きになって、
一度だけ関係をもってしまった。このまま突き進んでいいかどうか」
という相談を受けた。
もちろん、ここで引くのも突き進むのも彼女の自由だ。
自分で考えるしかない。答は自分の中にあるはず。
だが、当然のことながら、相手にも相手の自由がある。
突き進んだあとに、まったく予想外の展開で、手痛い目にあうこともありうる。
それでも砕け散らないだけの自分をもたなければ、
そういう恋愛はまっとうできない。
「何があっても、この人を好きになったことを誇りに思えるかどうか」が
ひとつの基準かな、と思う。
ただし、「結婚したい」という願望が強いなら、
やはり早めに引いたほうがいいのかもしれない。
いつでも、にこにこ、気楽に生きていきたいなあ、と
頭の空っぽな私は思ったりする。
やっぱり熱中症気味? 脳みそが溶けつつある・・・。
よく働いた1週間だった。
ま、フリーランスの場合、自分で言わないと誰も褒めてくれないもんで。
朝から、という日が多くて、夜型の私にはつらかったが、
平均3時間睡眠で乗り切った。
が、風邪をひいたのか、咳が止まらず。
以前、気管支炎で3ヶ月苦しんだことがあるが、そのときに近いような気がする。
まだまだ取材の日々が続くので、早く治さなければ。
今週は浅草演芸ホールに2回、それとABTのバレエ「ドンキホーテ」へ。
ドンキはとってもおもしろかった。
演芸ホールは当然(?)、菊之丞さん目当て。
大好きな「紙入れ」をやってくれてうれしかった。
仇っぽいおかみさんがうまいな〜。
パリ・オペラ座バレエ団の有志からなる「エトワール・ガラ」と
アメリカンバレエシアターの「ライモンダ」を立て続けに見る。
いちばん驚いたのは、オペラ座バレエ団のマリ=アニエス・ジロー。
美人でクールでかっこよくて・・・踊りもまたすばらしい。
ライモンダは全編通して見たのは初めて。
多少荒さが気になったのと、ベロセルコフスキー休演で
カレーニョが代演だったのだが、
カレーニョ、ちょっと元気がないかなあ、と心配。
若くハンサムな求婚者ということで、多少抑えていたのかしら・・・。
ライバルに扮したフリオ・ボッカはなかなかの貫禄。
ふたりの男の間で悩む女性・・・羨ましいかも。
バレエを見ていて、いつも思うのは肉体の雄弁さ。
芸術だから、ということを差し引いても、
日常で私たちも、もっと肉体で何かを語れるのではないだろうか。
ちょっとした仕草で、ちょっとした手の動きで。
たとえば相手への想いを、あるいは心からの愛しさを。
言葉には限界がある。
言葉の無力感を覚えると、胸に詰まったものは涙となるしかない。
でもそうではなくて、何かもっと豊かなものを仕草で、
肉体で、表現できたらいいのに。
ベートーヴェンは好きだけど、このタイトルは照れる。
先日、私は運命なんて信じない、と書いたが、
多少の訂正が必要かも。
つまり、運命にかこつけて、何かをあきらめたり後ろ向きになったりすることが
好きではない、と言いたかった。
運命的な出会い、というのは確かにある。
あの日、もし雨が降らなかったらあそこには行かなかった、
そうしたら決して会えなかった、という場合の出会いなんかは
その典型かもしれない。
私は違う世界の人と出会うチャンスは多いけれど、
その中でも、不思議な出会いというのは確かにある。
だけどねえ、出会いを運命と位置づけると、
別れもまた運命か・・・ということになるから、
それがせつないなあ、と思う。
そう簡単にあきらめきれない想いというのはあるものでしょ、
人間だったら。
このところ、とてもおもしろい取材が続いている。
近いうち、形として発表できると思うが、
人間の業、というのか欲というのか、
底知れないものがある。
連休3日間は、大銀座落語祭があった。
うち2日、2つのプロダクションにでかけてみた。
でも私は、やはりホールでやる落語会よりも、
寄席のほうがしっくりくるなあ・・・と感じた。
空気感が違う。
寄席は、行くだけで「浸れる」空間だから。
きれいで大きなホールでやる落語は、やはりもはや「落語」ではない。
もちろん、独演会などはそういうところでやるしかないわけだから
否定はしないけれど。
メジャーリーグでは、野茂に高津が、戦力外通告。
特に野茂投手にはがんばってもらいたい。
彼が行かなかったら、日本人メジャーはきっとこんなにいなかったはず。
勝負と競争の世界は厳しい。
今日は仕事を適度にかたづけて、本を読んだ。
「剣と寒紅」という、三島由紀夫とこの本の著者との交流の物語だ。
たまたまある人と三島の話になり、三島自身の著作と同時に、
関連本であるこの本も読んだ、というわけ。
私にとって、三島由紀夫という人は特別な作家だ。
高校生のころ三島にはまり、登校拒否になった。
飛躍があるような文章だが、つまりは三島の「死の美学」に
はまってしまったといっていい。
ずっと死んでしまいたい、と思っていたし、死の時期を選ぶ権利がある
などとも思っていた。それには高校など必要なかった。
だが、私はあのとき確かに、死の誘惑にとりつかれながら生を選んだ。
その後も三島は大好きで、純粋に文学として読み、
いろいろ考えさせられてきた。
このところ、少し離れていたのだが、再び接するタイミングが
きたということのようだ。
気づいたら、三島は今の私と同じ年で、あの事件を起こし、
割腹自殺をしたのだった。35年前になる。
彼は何を求めていたのだろう。
男らしく、武士として死にたかったのだとしても、
そこへ至る彼の心のプロセスは、どんなふうだったのか。
考えてもしかたのないことなのだが、同じ年齢でああいう死に方を
したと思うと、なぜか気になってしかたがない。
私は運命も宗教も信じていない。
この人と会うために、あの人と別れたのだ、というような
考え方はあまり好きではない。
だが、確かに人生においては、
出会うべきときに出会うべき人に会ってきた、と思う。
「運命」に浮かれたりはしないけど、どんな「縁」も
やはり大事にしたい、と感じている。